行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【独立記者論㉗】どうして人間はこれほど服従したがるのか

2016-07-07 16:30:19 | 独立記者論
新聞社を辞めた後、会社を問わず現状に不満、不安を抱えている記者から相談を受けた。知り合いの者もいるし、面識のない人もいた。ある講演会で、終了後、新聞社に内定が決まった学生から「私も辞められる記者になりたいです」と言われて度肝を抜かれたことがある。私はどんな記者にも、私と同じ道を選ぶことは勧めない。よほどの覚悟か経験がなければできないことでsるし、やるべきではない。ただ、次のメッセージは伝えることが出来る。

私は、事実を伝える勇気を忘れ、言論の自由と責任を放棄した職場で仕事を続ける意義を見出せず、27年間勤めた新聞社に辞表を提出した。帰国して、講演会などの場で「中国の共産党政権はいつ崩壊するのか」と質問を受けながら、新聞社に対して抱いた違和感と通ずる、この社会を覆う異様な空気を感じた。どこからそのよな発想が生まれるのか全く理解できない。メディアの報道も大きな要因だろうが、もっと根源的な理由があると感じた。地下に隠された巨大な機械がたえず目に見えない空気を地上に送り込み、人の神経や感覚を麻痺させ、思考を鈍化させているようなイメージが拭い去れない。

その機会を動かしているのは官僚制である。マックス・ウェーバーの定義に従えば、規則によって権限が定められ、上意下達の階層的組織を持ち、専門化による職務分担が文書にもとづいて遂行される、ということになる。試験、資格による組織内競争があり、組織に順応した対価として昇進のインセンティブが与えられることによって忠誠心が養われる。終身雇用や年功序列は官僚制と親和性を持つ。オートメーション化、あるいはインターネットは、官僚組織の部品として固定化された奴隷の地位から人々を解放するかのように期待されたが、むしろある部分においては強化されているのではないか。

新聞社の編集現場で取り交わされている会話、しばしばこそこそ耳打ちのように伝えられるのだが、それを公開したら多くの人々は唖然とするに違いない。権威ある人物の指示に対し、それがいくら不合理、不当なものであっても、なんの躊躇も戸惑いもなく下へ下へと伝言ゲームが繰り返される。言論の自由、社会的な責任や使命とは無縁な事なかれ主義、事大主義、場当たり主義が支配している。

真理を捻じ曲げ、信念を捨て、強者に従うことしかできない人間は、屈服した奴隷に等しい。こういう人間に限って、別の場所では理想を語り、権威主義を振りかざす。周囲は気づいていても何も言わない。抵抗し、反抗に立ち上がる意欲も力も失い、自らが服従していることを忘れてしまうほど、良心が摩耗している。

エーリッヒ・フロムは『心理的、道徳的問題としての反抗』でこう書いている。



「どうして人間はこれほど服従したがるのか。どうして反抗がこれほどに難しいのか。国家、教会、世論などの権力に服従しているかぎり、私は安全であり、保護されているように感じる。実際、自分が服従しているのがどのような権力であろうと、問題ではない。それはつねに、何らかの形で力を行使し、全知全能を詐称する制度、もしくは人間なのである。服従によって、私は自分が崇拝する権力の一部になることができるのであって、そのために自分も強くなったと思うのである。権力が代わりに決定してくれるから、私があやまちを犯すはずはない、権力が守ってくれるから、私が孤独であるはずはない、権力が許さないから、私が罪を犯すはずはない」

自由と独立には責任が伴う。人はその責任を逃れるため、官僚組織の中に逃げ込み、埋没しようとする。厚い空気のベールに囲まれた人々が見る外界は曇っている。真理を追い求めようとする独立した精神が失われているからだ。フロムは、真理にたどりつくためには「惰性の根強い抵抗を克服し、間違いを恐れ群れから離れることを恐れる気持ちを、克服しなければならない」(『預言者と司祭』)と主張する。思想もまた行動を伴わなければ絵に描いた餅に過ぎない。行動の表現方法は様々である。唯一の正解があるわけではない。まずは覚醒から始まる。







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