ひろしま歴史街道散策くらぶ:10月例会講演会に参加!
27-10/15日(木) 広島市中央公民館 10:00~12:00 約20名参加
テーマ
近世社会と広島藩領
~
城下整備と広島藩政 ~
講師 = 佐々木卓也 氏
1、
福島正則と城下整備
福島正則
福島氏時代には穴太衆(石工)を雇い入れ、毛利氏時代に不十分だった城の整備および城下町作りが本 格的に行われた。
外部が整備され、内部、中堀、外堀のある1km四方の広大な城となったのはこのころである。
二葉の里付近から城郭の北側を通っていた西国街道を城下の南側を通るように付け替えるとともに雲石 街道を整備したといわれ、町人町が拡大した。
改易転封
大規模な城整備と城下町作りは徳川家康を怒らせ、慶長14年(1609)正則は謹慎をいいわたされ
ている。
さらに、元和5年(1619)に正則は洪水による被害の修復を幕府から武家諸法度を破った無届け改 築ととがめられ改易され、信濃国川中島へと転封された。
同年8月8日に浅野長晟入城以降は浅野氏代々の居城となり、明治時代に至るまで12代約250年間 続いた。
浅野長晟
浅野氏時代には城普請(島普請)はほぼ行われなかったが、大規模な干拓事業は引き続き行われ、約2 50年間で当初の域より5~6倍規模にまで広がった。
寛永元年(1624)安芸国を震源地とした地震では、石垣や多門・櫓・塀などが崩壊したことを最初
に、それ以降数度の地震災害の諸記録が残っている。
幕末維新
元治元年(1864)の第一次長州征討の際には、徳川義勝を総督とする幕府軍の本営となる。
戊辰戦争になると広島藩は官軍として戦ったため、城郭には被害はなかった。
第二次大戦前には一時国宝指定されたが、昭和20年(1945)8月6日の原爆投下で灰櫨に帰した
のである。
2、
浅野長晟と広島藩政
広島築城
安土桃山時代に中国地方は毛利氏がその大半を治めていた。
天正19年(1591)には広島城が築城されて毛利氏の居城となり、112万石を領した広島城下は政治・経済の中心地となっていた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として参戦した毛利輝元は、戦後に防長2国(長州藩:現在の山口県域)に滅封された。
福島時代
替わって安芸・備後2ケ国の49万石の太守として、尾張国清州より福島正則が入封した。
正則は慶長6年(1601)から検地を随時実施し、毛利氏時代に不徹底に終わった兵農分離・石高制の移行を行った。
城下町建設や国内産業の発展なども正則の時代に行われ、広島藩の藩政が確立した。
正則は大阪の夏の陣が終わった元和5年(1619)6月に洪水で損壊した広島城を無断改修した際に武家諸法度違反の咎めにより、大幅減封の上で信濃国川中島藩に転封された。
広島藩の礎をなした福島正則の治世は、その後の浅野家存続の模範となった。
浅野入国
紀州藩より、豊臣政権下で五奉行を務めた浅野長政の次男長晟が安芸1国・備後8郡の42万6000石で入封した。
大阪との瀬戸内海航路の海運に恵まれ、藩政成立の早期より木材・鉄・紙などの専売を敷いた。
第2代藩主光晟(長晟次男)は徳川家康の外孫であった。
幕府側の許しを得て光晟の庶兄長治に5万石を分与した。
これが支藩である三次藩の立藩である。
以降の浅野宗家は豊臣氏の血を女系で受け継ぐこととなり、代々外様大名として幕末まで至り長州戦争に巻き込まれる。
広島藩政
第4代藩主綱長(綱晟の長男)時代の元禄14年(1701)に分家の赤穂藩主浅野長矩が刃傷事件を起こすに至る。
家臣団の知行削減や藩札の発行が行われている。
それが引き金となり江戸中期には、藩の財政悪化が顕著となり、藩内各所での商品作物奨励と専売制導入や、新田開発や海陸交易など積極的に行った。
※ 2か月お休みしたので、久しぶりでしたが難しい講義に眠くていけませんでした。
講義内容は広島城築城以降の藩政なので興味はあったのですが・・・
いやはや、勉強になりました!!