平成28年の鉄道記念切符の旅は「
呉線の旅・忠海・大久野島・竹原・尾道」の旅でした。
広島駅7:03発のJR福山駅行きに各自最寄りの駅からの乗車になります。
私は、新白島から、6:28の横川行きに乗り横川で乗り換えて皆さんと合流しました。
今回は、6名の参加です。
途中、呉線に乗り換えて、9:00忠海駅に到着です。
今回は私は、スケジュールは見ないで、ノウプランの会長のプランに従うと言うただ付いていくと言う旅でした。
忠海駅
フェリー乗り場に移動します。
途中の「
弁財天社」のお参り。
弁財天社は
寛文3年(1663)浅野長治公三次藩5万石に舎封されるや忠海は三次藩、三次藩の蔵米移出港として舟入堀が築調され、蔵屋敷、御舟蔵が勧請されました。
350年に350年の長きにわたり弁天さんと愛称の元、氏子町民の尊崇を集め今日に至っております。
岸壁の「常夜燈」はどこにも見かけられます。
フェリーで移動 → 15分。
フェリー切符売り場では、名物の「丸金天ぷら」を皆さんお気に入りの様でした。
フェリーに乗る事15分、「大久野島」到着です。
大久野島
ウサギが迎える、瀬戸内海の楽園。
早速沢山のウサギに歓待されました。
大久野島毒ガス資料館
昭和4年(1929)から昭和20年(1945)の終戦まで大久野島は秘密の「毒ガス島」として当時の陸軍毒ガス製造所が建設されていました。
その間、各種の毒ガス製品作業者や戦後の処理作業で被毒した多くの人が亡くなっています。
恐るべき毒ガスの実態を多くの人に知って頂き、いまわしい歴史を二度と繰り返さぬことを
願って元従業員や、ご遺族から貴重な資料をご寄贈いただき展示しました。(資料より)
見学しました。
島内は公園化していて、多くの観光客がいます。
芙蓉の花も出迎えてくれます、酔芙蓉でしょうか?
小さな桟橋では小学生のグループが「釣り」を楽しんでおりました。
時間が無くて又、フェリーで「忠海港」へ戻ります。
大久野島は随分と大昔に一度きていましたが、その時は砲弾跡と岸壁で釣りをした記憶しかありませんでした。
忠海に帰ってきました。
忠海、滞在時間45分ということで、近くの「
忠海八幡神社」です。
階段を上ると左右はこんもりとした社叢で、モッコクを主とした樹林になっています。
パワーを感じます。
忠海八幡神社社叢は国指定天然記念物に指定されています。
この社叢はモッコク社叢として貴重です。
モッコクはアジアの暖地固有の常緑広葉樹林であり、指定当時はモッコク60本余りが群生。
自然の海岸樹叢であった。
昭和11年9月指定。
又、別の由来板には、開発八幡神社とありますが「開発」=あめつちのはじめ?
呉線を「
竹原駅」に移動です。
竹原駅から歩いて15分ほどの安芸の小京都、竹原の街並み保存地区があり、江戸時代の町人文化の息吹きを現在まで伝えている。
この町並の大きな特色は現在でもそこで人々が生活している点でしょう。
人々の生活を感じることのできる竹原の街並み保存地区は、ほっと落ち着ける雰囲気にあふれています。
竹原保存地区のマンホール。たけはらのマンホールの蓋です。
保存地区入口付近の「
頼山陽銅像 」です。
頼山陽生誕200年記念。
日本で初めて建立された銅像、頼山陽は竹原で育った高名な儒学者として全国的に有名。
幕末の志士に多くの影響を与えた。
竹鶴酒造です。(NHKドラマ「まっさん」で有名)
松坂家住居
松坂邸は浜旦那(塩田経営者)の暮らしていた家。
唐破風の屋根に塗りごめの窓、入母屋造りの優雅な建築意匠は見る人を圧勝する。
「ほりかわ」の土蔵を改装した「
ほり川のお好み焼き」。
お昼昼食をここでと思って頑張ってきましたが、折悪く、団体さんが入られて、「準備中」になりました。(非常に残念)
初代郵便局跡 →書簡函は今も利用しています
竹原屋根の街並み
西方寺
西方寺の観音堂は小早川隆景が京都の清水寺の舞台を模して建立したと伝えられていますが、時間的にも立ち寄りませんでした。
西方寺境内の初代「竹鶴正孝、リタ」夫妻の銅像です。
竹原の象徴「竹を使ったオブジェ。
胡子神社 大林監督の映画「時を掛ける少女」で有名。
小路地区 → 生活感を現さない様に工夫されています。
13:30になっておりました、やっと「竹原道の駅」で、お昼の「
芋たこカレー」を皆さんで頂きました。
ちょっとこじゃれたレストランです。
デザートのアイスも頂きましたが、時間が無くて、味わって頂くという事もありませんでしたが、美味しく頂きました。
続きます・・・