遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『古典モノ語り』   山本淳子   笠間書院

2023-04-03 15:59:44 | 源氏物語関連
 3月2日に、地元の宇治市源氏物語ミュージアムが主催する連続講座で、「明石の御方-『花も実も』ある人生-」という演題での講義を聴講した。講師が本書の著者山本淳子さんである。元々は2022年8月18日の講座開催だったのだが延期となっていた。受講再募集に応じてお陰で聴講できた。この時、この講座の演題に記された「花も実も」あるというのは「橘」のことであり、光源氏が明石の御方を「花も実も」ある橘に喩えたことをテーマにして、明石の御方の人生を解き明かす講座だった。『源氏物語』「若菜下」巻に出てくる光源氏が明石の御方に感じた「五月待つ花橘の、花も実も具して押し折れる香りおぼゆ」という思いについてが話の中心となった。「花も実も」の実態や「五月待つ」の意味、並びに「橘の古代史」などが具体的に説きあかされた。
 この講座の中で、著者近著の本書で「橘」を取り上げているという点に触れられていた。そこから関心を抱き、読んでみた。2023年1月に単行本が刊行されている。

 本書は、古典の中に出てくる「モノ」そのもの、「平安時代の物にスポットライトをあて」(p4)た内容である。著者は、「はじめに」において、「記録や作品を横断して、物たちが登場する場面を拾い上げ、説明を施すとともに、その物たちが負っている意味や思いについて考察」(p5)していくと記す。いわば、古典に記された背景や環境の一部となっている物や道具、あるいは脇役的存在のモノを、本書で主役にした。そのモノ自体を記録や作品を広範囲に渉猟し、先人の諸研究を踏まえて、縦横に解き明かしていく。
 なぜ、モノに光をあてたのかにも触れている。「記録や作品の中に物や道具が現れる時、それらは、一つには場面の主役とはなりにくいこと、一つには時代を経てしまってわかりにくいことから、えてして読み飛ばされがちではないでしょうか。が、立ち止まって読んでみれば、『枕草子』の瓜や『伊勢物語』の墨書盃のように、ささやかではあれそれぞれに記録や作品の世界の一角を構成し、時には欠かすことのできない大きな存在として描かれていることもあります。それは著者や作者たちがそれら物たちと共に暮らし、使い、心を託していたからです」と。脇役であるモノについて丹念に調べ、その存在の意味を明らかにしていく作業が本書である。それが逆に主役についてより一層理解を深めることにつながっていくという逆転の発想になっている。
 その一例が、冒頭に触れた「橘」について認識を深めることで、一層明石の御方の人生を鮮やかに理解できる契機となるのだ。モノが主役に連鎖する。

 本書には、8つの「モノ」が取り上げられている。その8つの「モノ」について、2つの視点から読者に対して「語り」かけている。一つの視点が一章で扱われて行く。取り上げられた「モノ」とその視点をまずまとめてみよう。
    牛車      走る・争う
    築地      囲む・呼び込む
    橘       実る・待つ
    犬       集う・呼ぶ
    泔(ゆする)  整える・手こずる 
    御帳台     護る・侵す
    扇       あおぐ・託す
    物への書き付け 切羽詰まる・遺す
全16章で構成されている。こららの「モノ」は古典作品に記されていても、ほとんど気に掛けていない脇役である。『源氏物語』にこれらのモノが記されていても殆ど意識せず、場面描写の背景としてストーリーを読み進めていたように思う。
 尚、「ゆする」というのは「米のとぎ汁」のことで、平安時代には、洗髪や整髪のために、シャンプーや整髪料として使ったモノである。「物への書き付け」は、上記の引用を含めて言えば、装束の一部を引き破り紙の代用にする、土師器(はじき)の盃や皿に文字や絵を書き付ける、瓜に顔を描くなどが具体例となる。

 私は章ごとに読み進めたが、こういう構成でそれぞれ独立した形で内容がまとめられているので、読者は一章単位でどこからでも読める内容になっている。
 
 各章は、そのテーマに関連して、様々な記録や作品からそのモノに関した記述箇所の原文が引用され、その続きに著者による現代語訳が併記される。引用箇所を踏まえ、先人の諸研究の成果と著者の所見を織り交ぜて、平安時代においてそのモノがどのように位置づけられ、意味づけられていたか、人々と関わっていたかなどが解き明かされていく。脇役としてのモノが鮮やかに浮彫にされてくる。記録や作品からの引用を縦横に組み立て、そのモノへの認識をクリアにしていく。そこが読ませどころとなる。

 本書末尾に「引用作品概要(50音順)」として解説文がある。ここを読むと、『和泉式部集』から始まり『能宣集』まで、25作品から引用されていることがわかる。日記、物語、歴史物語、説話集、和歌集、和文集、日本書紀・権記・小右記などが網羅されている。文献の渉猟範囲が広い。

 例えば、「第1章 牛車1/走る」では、「牛車の風景」の引用から始まり、牛車の車種や供人という基本的な説明がまずある。先人の研究を踏まえ、牛車内の乗り方の配置図も載せてある。車副が藤原道長を叱咤激励したエピソードや、清少納言が卯の花を使って奇抜な花車を走らせたという装飾牛車のエピソードが出てくる。この花車を現代ならイルミネーションで飾り立てた「トラック野郎」相当と喩えているのがおもしろい。
 「第2章 牛車2/争う」では、「車争い」の牛車が具体的に説明されていく。『うつほ物語』『落窪物語』『枕草子』に記述された牛車の争いが具体的に引用・解説される。その上で、『源氏物語』「葵」巻で有名な「車争い」の場面の具体的な状況が分析的に説明されていく。そこで、紫式部が『源氏物語』で描き出した車争いと『うつほ物語』『落窪物語』に描かれた車争いとのコントラストが明らかになる。紫式部が車争いのモチーフを『源氏物語』に採り入れたことに対して先例があったことをまず示す。その一方で、紫式部は、車争いという騒動の状況描写だけではなく、そこから「六条御息所にぴたりと寄り添い、その目と耳と心を語る」(p35)次元へと車争いの場面を「人の思い」に転換していく。『源氏物語』の場面を引用し、その車争いの場面の採り入れ方の鮮やかさを論じている。

 「心とは何と面倒なものなのだろうか。愚かなものなのだろうか。揺れ、泣き、また弾む。様々な心がいつも糸のように絡み合い、泥のように混ざり合っている。それが心なのだ。『源氏物語』は、人の心の手に負えなさに残酷なまでに向きあっている」(p41)これは第2章末尾の印象深い一文である。

 脇役である「モノ」に光をあてた本書から、初めて知ることが多かった。それが『源氏物語』の理解を深める上で学習教材になっていく。『源氏物語』とのリンクが本書を通読する楽しみに加わった。紫式部が先例、文献から如何にヒント、モチーフを得て、それらを換骨脱退し源氏物語の創作に採り入れているかの一端を知る機会になった。
 「橘」を取り上げた二章は、冒頭に記した連続講座での講義と重ね合わすことで復習を兼ねる上でも役だった。また、文化勲章は橘がデザインされているということを本書で知った。今まで文化勲章の形を意識していなかった。内閣府のホームページによれば、「その悠久性、永遠性は文化の永久性に通じることから、文化勲章のデザインに採用されたと言われています」(p77)とか。

 「犬」の二章を読んでいて、認識をあらたにしたことがいくつかある。要点をご紹介する。詳しくは本書をお読みいただきたい。
*犬は都の汚物処理係。その雑食性により排泄物の処分をしてくれたのだとか。 p111-114
*『大鏡』には犬の法事を執り行った飼い主の事例が記されている。それも高名な僧・清範(962~999)が説経の講師を行ったという。  p119
 ペットの葬式・・・・現代に始まったことじゃなかったのだ!
*藤原道長に対する呪詛に道長の飼い犬が神通力を示した説話がいくつかの説話集に記録されている。だが、それらの記述における時系列の整合性を分析すれば事実ではないと判明。古典文献の読み方には要注意ということだろう。呪詛話としてはおもしろいけれど。  p122-125

 各章には興味深いことがいろいろ引用紹介されているが、もう一つだけ触れておこう。「扇」の章に帰された『源氏物語』「夕顔」巻に出てくる夕顔の扇に絡んだ話である。
 光源氏が五条界隈に住む乳母の病気見舞いに行った。この時隣家の住人、夕顔を知るきっかけになる。光源氏は女から夕顔の花を載せた扇を受け取る。そして扇の扇面に「そこはかとなく書き紛らわしたる」歌を読む。
   心当てに それかとそ見る 白露の 光添へたる 夕顔の花
この和歌の解釈について、18世紀末に本居宣長が唱えた説により、歌意の理解の仕方が混迷するようになったと言う。それ以来過った解釈が行われてきた。だが清水婦久子著『光源氏と夕顔』(2008年)により、やっと正しい解釈に収まったそうである。『源氏物語』を現代語訳で通読しただけなので、夕顔の扇に記された和歌一つにそんな論議があったことを知らなかった。源氏関連の各種講座でもこの論議を聞く機会がなかったので、実に興味深く読めた。(p228-232)

 最後に、著者の所見として記された文から印象深い箇所をいくつか引用しておきたい
*荒れた家は妄想をかきたてさせ、男心をくすぐる。 p19
*他者の些細としか言えない行為が、人生の大きなつまづきを呼ぶことがある・・・・ 
 いや、それが巡り合わせというものなのか。              p167
*物言わぬ道具が、人に迫り人を追い詰める。そうさせるのは結局、モノではなく自分の心である。   p173
*貴族社会において女房とは、情報を拡散する存在だから  p187
*古代の考え方では、何かをひらひらと振ることは、魂の活動を奮い立たせ邪気を払う行為だった。そこで人々は誰かのために何かを振って、相手の幸せを祈ったのだという。p210
*一つの扇の上に、人々の思いが交錯する。扇がコミュニケーションツールであった p236
*人はたとえ命尽きても、遺された者の記憶の中で生き続ける。  p275

 古典に現れるモノは数多い。このモノ語りの第二作を期待したいと思う。

 ご一読ありがとうございます。


こちらもお読みいただけるとうれしいです。著者の本の読後印象記も含みます。
『紫式部考 雲隠の深い意味』   柴井博四郎  信濃毎日新聞社
『源氏物語入門 [新版]』  池田亀鑑  現代教養文庫
「遊心逍遙記」に掲載した<源氏物語>関連本の読後印象記一覧 最終版
 2022年12月現在 11冊
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