遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『百の旅千の旅』 五木寛之  小学館

2023-01-30 12:45:54 | 五木寛之
 題に惹かれて手に取った。著者のエッセイ集である。目次を見ると、「蓮如からみた親鸞」「長谷川等伯の原風景」「『千所千泊』と『百寺巡礼』」という題のエッセイが含まれている。それで更に読んでみる気になった。2004年1月に単行本が刊行されている。
 ネット検索してみると、このエッセイ集は未だ文庫化はされていないようだ。

 著者の小説と縁ができたのは、『親鸞』(上・下)を読んでから。読んだのは遅くなるが、『親鸞』(上・下)は2010年に刊行されている。著者の親鸞シリーズを読んでいたので、「蓮如からみた親鸞」という題に関心を抱いた。長谷川等伯については、他の作家の等伯に関わる小説を読んでいたこと、『百寺巡礼』シリーズは文庫を買い揃えていること、そこからの関心による。

 さて、このエッセイ集、「ぼくはこんな旅をしてきた」という前文から始まり、「第1部 日常の旅」と「第2部 思索の旅」の2部構成になっている。著者は「日刊ゲンダイ」に四半世紀以上にわたり「流されゆく日々」という連載を続けてきたそうだ。第1部はその連載からの抜粋だという。1996年~2003年の期間中に連載されたエッセイからの抽出。第2部は、語り下ろしによるエッセイ。著者は、「あとがき」に「エディターを前にしての、『語り下ろし』の文章をそえたのはライブ感覚のなかに生きた感情のゆらぎが感じられることを意図したからだ。構成者の感覚とのコラボレーションがおもしろかった」と記している。語り下ろしがその後どのようにして本書に載る文として結実したのかは知らないが、読みやすいエッセイとなっている。

 各エッセイの読後印象について触れていこう。併せて、*を付けて文を引用する。

第1部 日常の旅
<わが「移動図書館」の記>
 著者は少年時代、通学の往復に歩きながら本を読んだ経験を語る。1996年の時点では旅行の車中で読書をするという。東京から盛岡に行く車中の読書がエッセイになっている。著者流読書法が具体的に記されていておもしろい。特にエッセイの末尾文にエッ!
*語り部は騙部(かたりべ)であるというのが、年来のぼくの立場だ。作家はだますためにウソをつく。だからそのウソは評論家のように巧みに見えてはならないのである。p27

<日常感覚と歴史感覚>
 日常感覚と歴史感覚のそれぞれにだまされた著者の体験が題材。その根っ子に少年時代に国がつぶれる体験があると記す。1997年のこのエッセイの末尾に「そしていま、ふたたび無気味な余震を体が感じはじめているのだが」(p35)の一節がある。著者はこの時何を予感しはじめたのだろう・・・・。

<カルナーの明け暮れ>
 「なぜ涙と笑い、悲しみと歓びとを、両方とも人間的なものだと自然に受け止められないのだろうか」(p36)という問題提起から始まるエッセイ。ため息の出る日々のふりかえりから、仏教の基本思想にある中国語訳<慈悲>の<悲>について考えを深めていく。<カルナー>の訳が<悲>だという。「思わず知らず心と体の奥底よりもれてくるため息のような感情」(p40)を表現した言葉だとか。<カルナー>を受けとめ直す材料になる。

<あと十年という感覚>
 1997年時点で、著者は「あと十年という感覚」を感じている事実を語る。それでふと、思った。著者の年齢を意識していなかったことを。奥書を見ると、1932年9月の生まれ。つまり、今年(2023年)満91歳を迎えられることになる。このエッセイは65歳の頃の執筆。「65歳あたりからは、少しずつ自分の残り時間がリアリティーをおびて感じられるようになってくるらしい」(p50)と記す。その上で、著者は「少しずつ勇気が湧いてくる」ことと、「大河の一滴」という感覚を語っていく。著者はこの2023年現在、何を思っているのだろうか。

<日本人とフット・ギア>
 靴を語るエッセイ。著者の靴へのこだわりがわかる。靴に対する国による考え方の違いを論じている。フット・ギアという言葉をこのエッセイで初めて知った。「靴という道具」という意味らしい。靴から眺めた文化論が展開されていく。彼我の相違を論じていておもしろい。夏目漱石の言った<猿真似>への思いに回帰しているように受けとめた。
*もし、体型が十分だったとしても、精神がアジア人である以上、イタリアの服はその着手を裏切らずにはおかない。ファッションが文化であるとすれば、当然、ものの考え方、感じかた、すべてが服と人間のあいだにかかわりあうからである。p67

<蓮如から見た親鸞>
 「蓮如と親鸞のちがいのひとつに、寺に生まれたかどうかという問題がある」(p72)という一文から始まる。こういう視点から考えたことがなかった。結局、この一文をキーにして、親鸞は貴族的な家系を出自とすることと、流罪にされた親鸞の怒りとの関係をベースに論じていく。この読み解き方が興味深い。「ここで親鸞は少しの迷いもなく、上皇・天皇と同じ目線で向き合っている」(p81)という著者の着眼点は、考える糧として記憶しておきたいと思う。
*ぼくはもともと「記録よりも記憶」という立場である。表現されたものはかならずなんらかの目的をもつものなのだ。編集・制作者がいかに客観性を重んじ、中立の立場を保とうとしても、表現はすでに創作の世界に踏みこんでいる。主観を極力おさえることは可能であったとしても、主観をまじえない創作物などつくられる意味がない。 p76

<老いはつねに無残である>
 著者は身体的、日常的なことに関する実感として<老いはつねに無残である>と持論を展開している。その上で、「そのマイナスに比例するようなプラスを見つけ出す道はないものだろうか」と問いかける。ある婦人との視点の違いよる会話のズレがおもしろい。
 著者は妄想だ言いながら、21世紀という時代は<宗教ルネサンス>の時代と予想する。
*来たるべき宗教の目的とは何か。それは「人生には意味がある」ことを、人びとにはっきりと指し示すことではないだろうか。 p92

<長谷川等伯の原風景>
 等伯の『松林図屏風』の原イメージをさぐるために、能登半島の海岸線ぞいを歩いた体験を語るエッセイだ。そして、等伯の『松林図』の構図そのものの心象風景となる原風景を目の前で見たと記す。一度、見てみたいな、と思う。
 羽咋には日蓮宗の本山「能登滝谷・妙成寺」があり、その寺に等伯作『涅槃図』が蔵されていることを紹介している。普段でも拝観できるのだろうか・・・・。

<英語とPCの時代に>
 英語が日常生活に強引に入り込んで来ている状況を体験例で語りながら、英語を使うことの二つの様相を切り出して見せる。そして、「どのように使おうと、相互理解の具として英語を世界に流通させることは、言語における帝国主義としか言いようがない」と論じている。この点、共感する側面がある。英語とPCを語り、「きたるべき超格差社会」に警鐘を発しているエッセイ。
 このエッセイに、著者は「『五木』はれっきとした戸籍上の本名であって筆名ではない」(p108)と記す。知らなかった。「早大中退」という経歴が世に流布している点についても、その経緯と晴れて「早大中退」となったエピソードを併せて記している。この経緯がおもしろい。著者はインターネットから得られる情報の質について、自己の経歴の扱われ方を例にしつつ「そのなかには少なからず不正確で、事実とちがう情報も含まれているのだ」(p113)と警鐘を発している。これはネット情報を利用していて痛感するとことでもある。このエッセイでも最後は少し、宗教問題を取り上げている。
*本当のことは、人間とナマで接してこそ見えてくる。 p113

<身近な生死を考える>
 生死についてのキリスト教文化における二元論的思考、人間がもつ自己確認の行為、ふっと死を感じる瞬間に心が萎えるということ・・・・が生死を考える話材になっている。
 読者にとっては、考える材料になる。

<ちらっとニューヨーク>
 題名の通り、ニューヨークの一面を体感した著者の雑感。実際の体験をしないと、そういうものかという理解と感想に留まる。

<演歌は21世紀こそおもしろい>
 「社会諷刺、世相戯評のバックボーンが一本通っていないと、やはり『演歌』という言葉は、いまひとつしっくりこない」(p157)と考える著者の演歌論が展開されている。
*批評がほとんどない、というのは、そのジャンルが停滞している現状を示す。 p162
*イメージは、ものが変わればたちまちにして変わるものなのだ。 p169
*広く深い日本人の歌謡世界は、すべて<演歌・歌謡曲>の世界に流れ込んでいるというのが、一貫したぼくの考えかただ。 p173
*システムの根には、「魂」がある。・・・根のない花はない。「才」はかならず「魂」を核として成立する。 p175

<寺と日本人のこころ>
 2002年4月に、寺に関係する催しにずいぶん参加したという事実を踏まえて、日本人のこころの原風景といえる景観は、いまや寺や神社にしか残されていないのではないかと語っている。
 裏返せば、日本全国で日本的景色の喪失が進んでいることへの問題意識といえる。

<「千所千泊」と「百寺巡礼」>
 「千所千泊」と「百寺巡礼」という2つの計画がどういう経緯で生まれたか、その背景について書かれたエッセイ。「百寺巡礼」は文庫本を購入しているのでその背景が分かって興味深い。
 「百寺巡礼」は、2023年現在時点で、文庫本でシリーズとして10巻にまとめられて刊行されている。「千所千泊」の方は知らなかったので、ネット検索してみると、「みみずくの夜メール」というシリーズのエッセイ集として作品化されているようである。

第2部 思索の旅
<限りある命のなかで>
 著者71歳のときの語り下ろしである。老いていくことは苦痛でもあるが、「老いていくことのなかで、若いときには見えなかったものが見えてくる」(p204)と言う。21世紀になり、「大人の知恵と、経験と、寛容の精神が求められるようになってきつつある感じがしてきた」(p205)と語る。20年前のこの発言、まさに世界も日本も、今、その状況下にあるのではないかと思う。
*われわれが生きてゆく時代相をよく見ることも大切なことだ。 p206
*医学の常識は、きょうの常識であって、明日の非常識かもしれない。
 もっともっと自分の体が発する声なき声に、素直に耳を傾ける必要があるのではないか。 p209-210
*少しでも長く生きて、この時代の変転を眺めてみたいのだ。 p212

<「寛容」ということ>
 「セファルディの音楽」の広がりの背景、一神教世界における「宗教の衝突」、日本人の宗教的曖昧さをまず語る。そして、「曖昧さとして否定されてきたシンクレティシズム(神仏習合)や多神教的な寛容の精神こそ」(p220)が、現在の世界の情勢にもっとも有効な思想ではないかと論じている。そのために「日本人の曖昧さのなかに流れているものを、きちんと思想化していくことが必要」(p223)と語る。著者はそこに寛容の精神の存在を読み取っている。さらに、免疫システムが「寛容」の働きをもつ側面にも着目する。 「寛容」が21世紀の社会を動かすキーワードだと論じる。
 現状はまさにその「寛容」が欠落した状況に陥っていると痛感する。
*日本人の宗教的曖昧さは、私は、むしろそれぞれの宗派の背後にある絶対者というか、宇宙の根源の光というか、そういうものを大事にすることの結果なのだと思う。p219

<趣味を通じて自分に出会う>
 21世紀は「個」の確立の時代だと冒頭で語り、「個人として人間らしくこころ豊かに生きるにはどうすればいいかを模索する時代だ」(p232)と言い換えている。情報化時代であるが、自分の直感を磨けと説く。そして、趣味をもてと語り、著者自身の趣味についてふれていく。さらに、自分は雑芸を通しての表現者だとしての自分に出会ったと語る。
*趣味は何かと聞かれれば、自分の心身の働きを正確に知ること。それを探索すること。それをコントロールすること。これが本当は、私のいちばんの趣味だと思っている。p242
<旅人として>
 直感を大事にするには、「あちこち歩き回ることが必要だ」(p244)と語り、それが「旅」であると言う。著者自身の「旅」のモチーフが年々変化してきた事実を語る。「千所千泊」は日本的原風景-その風土とそこに住むひとたちのこころーを求めてという。著者は己を「デラシネ」(根無し草)と位置づけている。
*国家というものが民草に対していかに酷い仕打ちをするシステムであるかということを若いときに思い知らされた者は、国家のいうことを額面通りに受け取るほどお気楽にはなれない。  p247
*旅というのは空間の旅だけでなく、時間の旅、歳月の旅であることは言うまでもない。 p249
*ひとつのことを長く続けていくのは、時間を超えて生きていくことにつながっていく、という考え方が私の基本にある。できるだけ長く持続するということもまた、ひとつの旅のありかたではないか。  p250
*「続けること」それ自体に「時を超えていく」という意味があるような気がしてならない。 p250

 <趣味を通じて自分に出会う>の末節に、「最近、私のつれあいが趣味ではじめた絵が、だんだん本格的になって、いまでは完全に画家とよんでいい域にまで達してしまった」という一文が含まれる。本書の装画は「五木玲子」と記されている。「私のつれあい」つまり著者の配偶者だろう。

 著者五木寛之を知り学ぶうえで役立つエッセイ集だと思う。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
【旅の記憶】五木寛之さん  :「たびよみ」
あたまのサプリ みみずくの夜メールⅢ  :「幻冬舎」
五木寛之 著者プロフィール :「新潮社」
五木寛之 受賞作家の群像 :「直木賞のすべて」
五木寛之 兵庫ゆかりの作家 :「ネットミュージアム兵庫文学館」
五木寛之  :ウィキペディア
五木玲子 リトグラフ ダリア :「日経アート」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
ブログ「遊心逍遙記」に載せた読後印象記です。
『親鸞』上・下      講談社
『親鸞 激動篇』上・下  講談社
『親鸞 完結篇』上・下  講談社

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