相撲史に関心・興味のある方どうぞ

相撲史に関心・興味のある方どうぞ

正当な理由で休んだ?

2019-08-12 21:32:11 | 日記
 大正九年五月十七日附『東京日日』
紙の相撲記事。「主なる勝負左の如し」
とあって78番〔決り手の記載なし〕が
列記。

 そのなかに「榛名山(休)高瀬川」と
ある“意味”を考えてみたい。

 大正初め頃まで「烏賊を決める」卑怯な
やつがいたけれども、その後は「相手に休
まれた」場合を除いて、「や」を「●」あつかい
に準じて…番附編成方針が変った。

 榛名山も高瀬川も、その後改名して入幕
したとは思われない。但し、関取になったか
否か…未確認。

 それはそれとして。一方が「正当な理由」で
休場したと察するのである。

 勝手に推測すれば、当時の三河屋版勝負附に
は榛名山─高瀬川はカットされてるだろう。
 尚、翌大正十年に東京大相撲協会に「出版部」
が設置されている。番附や星取表発行が主要な
業務だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大相撲史 愚考

2019-08-12 13:42:55 | 日記
※昨日の閲覧…1,137・訪問…263
トータル訪問者数 592,040

 明治末、國技館ができると某新聞社の
発案で「団体優勝」が制度化された。いや、
違った。協会が団体優勝、新聞社が個人優勝
を考えだした。━それで、本場所大相撲に
「スポーツ的」要素が加味されたと思う。

 往時、「不戦勝」制度がなく、一方の欠場で
両力士とも星取表に「や」印が記入される
慣わしだった。「戦わずして勝利」なんて
「武士道精神」に反する…意識があったかも
知れない。

 ところが、大正期に入って某横綱が弟弟子を
無理矢理休ませて優勝あらそいを有利に…
なんて半ば「如何様」的行動さえあった。

 不戦勝制度がない頃は、当然「や」を「●」
と同一視できず、ずるい力士は2勝1敗乃至
3勝2敗となった時点で、“雲隠れ”━隠語で
「烏賊を決める」と云って大正初期まで通用
していたそうな。

 けれど、そんな卑怯なやつが将来出世した
事例を寡聞にして全然知らない。入幕力士の
下位時代の星取表をみてもそんな成績を発見
できぬ。

 どうも話が長くなった。続きは今夜…。

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする