城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

九七式中戦車からレオパルト2戦車へ 23.7.12

2023-07-11 19:54:13 | 面白い本はないか
 レオパルト戦車と聞いてすぐわかる人はどれくらいいるのだろうか。おじさんもロシアがウクライナとの戦争を始めるまでは全く知らなかった。この戦車はドイツが製作したもので、ウクライナが反攻作戦のために是非とも必要だと言って、やっとのことで西側諸国すなわちNATO諸国から提供されたものである。ウクライナは提供される前は、ほとんどロシアと同じ戦車を使って、ロシアと闘っていたのである。6月からのウクライナによる反攻作戦に投入されたが、残念ながら何台かのレオパルド戦車が破壊されてしまった。ウクライナから奪取した占領地に築いた防衛線を突破することが容易ではなく、さらに対戦車ヘリによる攻撃を受けたせいだと言われている。

 レオパルト2A5

 ロシアの旧式の戦車は、戦車内にある砲弾と乗員を分ける壁がなく、戦車が攻撃を受けるとその砲弾が爆発し、乗員の命が奪われる。これに対し、西側の戦車は砲弾と乗員との間に壁があり、攻撃を受けても砲弾が爆発する可能性は少なくなるよう設計されている。こうした人命重視かどうかは、太平洋戦争の時の日米の戦闘機の設計の差に現れている。日本の代表的戦闘機であるゼロ戦は、軽量化し、スピード、操作性のために、乗員を守るための装置(座席の隔壁や燃料タンク等)を軍の命令で設置していない。結果日本軍は優秀なパイロットが失われる結果となった。(もちろん、その設計のもとには日米の経済力、技術力の差があったことは言うまでもない。)

 日本軍が使った九七式戦車は、大戦中の主力戦車である。ただし、日本の戦車は戦車同士の闘いでほとんど戦果があげることができないどころか全滅しているケースも多い。1939年にノモンハン事件が起きているが、この時日本の戦車はソ連軍の戦車に砲弾が命中しても貫通できない一方で、薄い装甲は相手の攻撃を受ければその砲弾が戦車内で渦を巻き、乗員(4名)は切り刻まれた状態となった。

 日本の戦車 九七式中線車

 ソ連の戦車 第二次大戦中に使われた
 ドイツは自軍の戦車がソ連の戦車よりも優れていると思っていたが、これが現れて驚いた

 ここまで読んできた方は、戦車の話かと思うかもしれないが、実は福間良明著「司馬遼太郎の時代」の前段となる話である。司馬は、旧制高校の受験に失敗し、大阪外国語学校に進み、在学中に学徒出陣で徴兵され、満州・四平陸軍戦車学校を経て。戦車第一連隊に配属された。このため、テクノロジーやロジスティクス(兵站)、合理性への関心は高かった。敵砲を防御しうるだけの鋼板の強度や燃料の補給が戦車隊には不可欠だったが、司馬が目にしたのは日本軍は、精神主義は語っても、技術合理性やロジスティクスはさして顧みなかった。この軍隊での経験は、「異胎の時代・昭和」、「暗い昭和」という形で、司馬の作品に反映している。

 復員した司馬は、新聞記者(産業経済新聞(後の産経新聞)に48年に入社し、文化部長、出版局次長を経て61年に退社。を経て、歴史作家となった。司馬がたどってきた経歴は、本人に言わせると「傍系」「二流」(旧制高校、帝大というコースに失敗し、就職も二流紙。作家となってからも文壇とはつきあわない)ということであった。(しかし、後に司馬は文化勲章を受け、皮肉にも超一流の文化人となった。)


 司馬遼太郎作品ベスト20(22年6月現在)「司馬遼太郎の時代」から孫引き

 司馬の作品は60年代のものが多いが、刊行時の単行本が売れたわけではなく、70年代から新たに文庫本市場に参入した講談社文庫、文春文庫、集英社文庫などに司馬作品が登場したことによって、ビジネスマンを中心に読まれた。彼らは、実用としてではなく、教養として司馬の作品を支持した。また、通勤電車の中で読むことができたということも大きかった。

 ※司馬の歴史小説は、純粋な歴史学でもなければ純粋な文学でもなかった。作品の途中で出てくる「余談」は多くの読者を惹きつけた。元プレジデント社長の作家・諸井薫は「司馬作品は小説ではなく、傑れた歴史読み物として読まれたからこそ、これだけの幅広いビジネス層の強い支持を得られた」と語っている。文学、思想、歴史方面の読書を通じて人格を陶冶するという教養主義は、60年代末に衰退した。高度成長期以降かわってでてきたのは、大衆教養主義とでも言うべきものであった。司馬作品はこうした中で歓迎されてきたのだった。

 司馬の作品について、歴史の専門家がとやかく言うことは80年代までは少なかった(もちろん、英雄が活躍するばかりの物語に民衆史観の学者が苦言を呈することはあった)。司馬が歴史学者の注目を特に惹いたのが、「坂の上の雲」(1969年)について、「自由主義史観」にたつ藤岡信勝がこの作品を激賞したことから火が付いた。自由主義史観とは戦後教育における歴史認識は日本の過去を一方的に断罪する「自虐史観」であり、それはアメリカ占領軍が押しつけた歴史観、共産主義勢力の歴史観に基づくものであると批判した。司馬の作品をこのように評価した藤岡等の自由主義史観者に対して中村政則は、「近現代史をどう見るかー司馬史観を問う」岩波ブックレット(1997年)を出版し、司馬の作品には、攻められた側、侵略された側」の視点を忘れており、とかく独善的な戦争観が成立すると。そして日露戦争が朝鮮支配と重合して進んだことに注意しなければならないと。

 司馬の作品の意図は「昭和の暗さ」を際立たせるために「明治の明るさ」を対局に示した。しかし、その意図は明るさばかりが目立ち、昭和の暗さがばんやりしてしまうことにつながった。日露戦争における様々な問題が批判的に顧みられることなく、昭和の戦争につながったのなら、その明るい明治は、暗い昭和を産んだことになるなら、こうした対比は適切でないことになる。

 約2年前(21年10月16日)にこのブログで「司馬史観」とはを書いた。このブログで取り上げた「司馬遼太郎の時代」はなぜ司馬がこのような作品を書き、それを国民が支持したかを当時の社会状況を踏まえながら様々な論点から書いており、また違った司馬が著わされている。是非一読を
お薦めする次第である。




 

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