新幹線の発達や地方空港の整備は、出張や旅の時間を著しく短縮し、旅行を楽しまれる方が大幅に増加しました。
私が初めて宇和島市から東京に出る頃は、まだ鉄道は「国鉄」と呼ばれている時代でした。宇和島市から朝早く宇和島駅から特急に乗り、東京駅に着くまでには24時間以上かかる時代でした。当然のことながら、四国と本州を結ぶ瀬戸大橋もありません。東京に出るためには、宇和島駅から高松行に乗り、高松からは宇野行の連絡船に乗り換えました。宇野駅から特急瀬戸に乗り東京に行きました。特急瀬戸は、東京駅に着く手前の品川駅に朝6時半頃着き、30分以上停車していた記憶があります。品川駅で長く停車するのは、品川駅で夜行列車で東京駅に入る客は、品川駅のホームに沢山の顔洗い場が設けられており、そこで顔を洗い、歯磨きをし、顔を整え、東京駅に入り、下車するためでした。
当時高松港から宇野に連絡船で向かう時、何となく外国に向かう気分がしたものです。瀬戸内海は海も穏やかで、船酔いすることも全くありませんでした。連絡船が宇野に着くと、乗客は我先に下船し、走って特急瀬戸号に乗り込みました。多くの方は私も含めて自由席のため、早く乗り込んで席に座りたい心境が、乗客の走る姿に表れている時代でした。今の若い方々には考えられない、当時の長旅の人々の苦労の一場面です。
宇和島駅から東京駅まで新幹線のない時代ですから、24時間以上もかかる長旅でした。この長旅での楽しみは、窓から眺める東海道の風景と「弁当~弁当~」と言って売る、弁当屋さんから弁当と四角いプラスチックの容器に入ったお茶を買って、弁当を食べる楽しみでした。また駅弁屋さんは、ゆで卵を4,5個と小さな袋に塩を入れて売られており、その卵も旅の共にしたものです。当時は停車する益の名前も全部覚えていました。その駅ごとの駅弁を楽しむことが出来たのです。これは、今の時代では味わえない楽しみでした。
高松と宇野を結ぶ連絡船では、「かけうどん」が売られており、このうどんの味も忘れがたい味になっています。
私が帰郷し、思い出の連絡船での「うどんの」の味を、当時NHKの朝のラジオ番組「ラジオビタミン」に投稿しましたら、ラジオ番組で紹介してくださいました。「ラジオビタミン」には詩や俳句も投稿させて頂き、8~10回ほど紹介された記憶を懐かしく思い起こします。
使徒パウロも様々な「経験」をし、その経験を分かち合いました(ヘブライ10:33)。
現在私も年を重ね、様々な「経験」を紹介できる心の余裕が生じたことを感謝する日々となりました。
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超大粒の いちご頂き 甘きこと 今日の一句

頂いた美味しい「イチゴ」