夏本番の昼下がり、裏の畑に行ってみると
糸トンボがレモンの木の葉に止まっていました。
小さな体で、暑さも平気のようで、見る私たちに爽やかな飛びを見せてくれます。
今日は夏本番の中の糸トンボと越後の山百合の花を紹介致します。
レモンの木の葉に止まっていた「糸トンボ」
ー 体長は約30mm -
新潟の写真家の提供の「山百合の花」
夏本番の昼下がり、裏の畑に行ってみると
糸トンボがレモンの木の葉に止まっていました。
小さな体で、暑さも平気のようで、見る私たちに爽やかな飛びを見せてくれます。
今日は夏本番の中の糸トンボと越後の山百合の花を紹介致します。
レモンの木の葉に止まっていた「糸トンボ」
ー 体長は約30mm -
新潟の写真家の提供の「山百合の花」
聖書を学ばれた方はご存知ですが、聖書には「分別のない者」は神エホバはいない、と言い、不義のうちに忌むべきことを行なうことが記されています(詩編53:1)。皆様方はそのような方ではないことを願っています。さらに、1914年以降の「終わりの日には、あざける者たちがあざけりを抱いてやって来るからです。その者たちは自分の欲望のままに進み、「この約束された彼(イエス)の臨在はどうなっているのか。私たちの父祖が死の眠りについた日から、すべてのものは創造の初め以来と全く同じ状態を保っているではないかと言うでしょう」と、聖書には記されています(ペテロ第二3:3,4)。聖書は「分別のない者」は「あざける者たち」であり、彼らは「神エホバはいない」と嘲弄し、神エホバの約束を侮ることを教えています。
聖書の箴言は、神エホバを「嘲弄している者たちに返答する」保証の言葉を次のように記しています。
「我が子よ、賢くあって、わたし(エホバ)の心を歓ばせよ。わたし(エホバ)を嘲弄している者たちにわたし(エホバ)が返答するためである」(箴言27:11)。
上の聖句が示している通り、み言葉を学び、その教えを黙想し、ご意志を守り行う賢い者、思慮深い人となってエホバ神の心を歓ばせるように命じられています(詩編1:2,3.マタイ7:24,25.箴言27:11)。そのようにエホバ神に忠節を保つ者と、「分別のない者」、「あざける者」、つまり不忠節な者をエホバ神が見分けて、エホバ神が確かにおられることを返答してくださるのです(詩編4:3)。
エホバ神は、侮られるような方ではなく、ご自分を嘲弄した者・不忠節な者を処断された事例が聖書に記されています(ガラテア6:7)。アッシリアのラブシャケが、神エホバとイスラエルの忠節な王ヒゼキヤに対し、嘲弄した時、神エホバは忠節なヒゼキヤ王の全き信仰の祈りにこたえ、一人のみ使いを用い、一夜のうちにアッシリアの大軍18万5千人を滅ぼし、ヒゼキヤ王とその民を保護しました(列王第二18:17~19:37)。アッシリアの18万5千人の大軍は血を流すことも、叫び声を出すこともなく、息絶えていたのです。そのようにしてエホバ神は、ご自分の約束した通りにこたえられたことが記録されています。ヒゼキヤ王は、窮地に追い込まれても、エホバに依り頼み、全き信仰を表明し、祈りによってエホバ神に近づき、エホバ神の心を歓ばせたのです(箴言3:5;27:11.ヤコブ4:8)。その結果、エホバ神はご自分に忠節な者を保護し救出するために、エホバ神を「嘲弄している者たちに」エホバが返答し、処断をされたのです。エホバ神は忠節を持って、ご自分に忠節な者たちを救出されるのです(サムエル第二22:26)。この事例は、これから生じる事物の体制の終結の時も、同様にエホバの心を歓ばせる忠節なご自分の民を保護し、救出されることのひな形となっているのです。この事に確信を抱かれる方々は幸いです。
南風の 吹くことも無し 銀天街 今日の一句
爽やかな庭の「イチゴミルク」
スーパーの花売り場に、ハンカチの木の花が鉢植えで売られていました。
私の手持ちの花図鑑に紹介されているハンカチの木と異なっているのですが
「ハンカチの木」として売られていました。
今日はハンカチの木の花と越後の蓮の花を紹介致します。
スーパーで鉢植えで売られていた「ハンカチの木の花」
新潟の写真家の提供の「蓮の花」
皆様方も、何かにつけ、実質が無いにも関わらず「自慢話しをする人」、つまり「誇り高ぶる人」をご存知かも知れません。ご承知の通り、自己顕示欲が強く「誇り高ぶる人」は、他の人を築き上げるのに良い言葉を話しません(エフェソス4:29)。ですから、周りの人はそのような人から離れていたいと思われるに違いありません。
「誇りの気持ち」はごう慢な気質を育て、愛や優しい気遣いが密接に関係する「忠節」という、重要な特質を損なう危険があります。ですから「誇り」について注意を払うのは肝心なことです。「誇りの気質」は「謙遜な気質」と180度異なるのです。
聖書の箴言は、「誇り」、つまり「自らの自慢」を戒め、次のように教えています。
「あなたは自分の口ではなく、よその者があなたをたたえるように。あなた自身の唇ではなく、異国の者がそうするように」(箴言27:2)。
上の聖句が述べている通り、自ら自慢話しをし、誇ることがないように教えています。他の人に愛を動機として進んで仕え、善を行なえば、他の人、及び異国の者、つまり遠くに住んでいる人までが「あなたをたたえるように」なることを教えています。上の箴言は「誇りの気質」を抱かないように教えていることが分かります。
ですから、聖書は若い人にも年長者にも「ごう慢な者」となることなく、「謙遜な者」となるなら、神エホバがあなた方を高めてくださることを次のように教えています。
「同じように、若い人たちよ、年長者たちに服しなさい。しかし、あなた方はみな互いに対してへりくだった思いを身に着けなさい。神(エホバ)はごう慢な者に敵対し、謙遜な者に過分のご親切を施されるからです。
それゆえ、神(エホバ)の力強いみ手のもとにあって謙遜な者となりなさい。そうすれば、神(エホバ)はしかるべき時にあなた方を高めてくださるのです」(ペテロ第一5:5,6)。
また、聖書は次のように勧めています。「・・・他の人が自分より上であると考えてへりくだった思いを持ち、自分の益を図って自分の事だけに目を留めず、人の益を図って他の人の事にも目を留めなさい」(フイリピ2:3,4)。このような神エホバの教えを適用するなら、誇り、ごう慢な者となることなく、謙遜な者として歩むことができるでしょう。
イエスは地上に遣わされていたいた間、神エホバの子でありながら、「自分を無にして奴隷の形を取り、・・・自分を低くして」、手本を模範として残されていますので、私たちもイエスの精神態度に見倣い、誇りに根ざしたごう慢な者ではなく、謙遜な者として祝福を受けたいものです(フィリピ2:5~8.ペテロ第一2:21)。
花火師の 匠の業の 花火かな 今日の一句
裏庭に咲いている「姫ヒマワリ」