notation

ひふみよ

2010-07-02 02:22:00 | 
 
 
小沢健二13年ぶりのライブ「ひふみよ」について。

「ひふみよツアー」ではトゥイターでも2chでも感想で演出には触れないという民度の高さというかリテラシーの高さに驚きました。楽しみにしている人をそのままにしてあげるという普通出来ないこと。みんな言いたかったんだと思います。だって楽しかったもの!でもガマンした!

私、自身のディレクタープロフィールの尊敬する人物に「小沢健二」と書いてしまうほどなんですが、今回のツアーで本当にこの人が好きで良かったと思った。
フリッパーズ時代よりも小沢のファーストアルバムで「この人の言っていることは間違いない」と思い、早16年。
媚びるところは媚びるけど、それを隠れ蓑にもせず、媚びを感じさせず、言いたいことは言い切る。反論する人が馬鹿に見えるくらい言い切る。
相変わらず心のベストテン第一位から十位まで。

ライブ会場で売っていた書籍、「うさぎ!」と「企業的な社会、セラピー的な社会」は2セット買ってます。読む用と貸す用。


ツアー終了ということで、感想をアップします。
ネタバレ満載。



私は初日5/18の相模大野(5列目)と6/17(29列目)の浜松に行ってきました。
セットリストは両日とも共通。他の日は多少違うかも。

セットリスト
**********************************************
流れ星ビバップ
 朗読
ぼくらが旅に出る理由
 朗読
天使たちのシーン
苺が染まる(新曲)
ローラースケート・パーク
東京恋愛専科
ローラースケート・パーク
ラブリー(歌詞の練習)
 朗読
カローラⅡにのって
痛快ウキウキ通り
天気読み
戦場のボーイズライフ
強い気持ち強い愛
 MC
今夜はブギー・バック
 朗読
夢が夢なら
麝香
 朗読
シッカショ節(新曲)
さよならなんて云えないよ(メンバー紹介)
ドアをノックするのは誰だ
ある光
時間軸を曲げて(新曲)
ラブリー
流れ星ビバップ

***アンコール***
いちょう並木のセレナーデ
愛し愛されて生きるのさ
**********************************************



相模大野グリーンホール、初日。5列目。ほぼ真ん中の最高の座席。
演奏前、客席に向かって10分前くらいから強いライトが当たり、演奏直前に真っ暗に。
そして「ひー、ふー、みー、よー!」の合図で「流れ星ビバップ」がスタート。
周りの人が立ち上がったのか座っているのかわからないくらいの真っ暗闇。

真っ暗の中で流れる音楽。目の前で演奏しているのだけれど、何も見えない。
見えるのはアンプの光るランプだけ。

1コーラスで音が止まる。
小沢用読書灯の様なものでちらっと顔が見える。
鳴りやまない歓声。鳴りやまない。
で、歌以外の第一声が「はじめられない」。
朗読がはじまる。

その内容は2003年のニューヨーク大停電のときのこと。
停電によってもたらされた『いつも同じ感じで進んでいる世の中の、全然違う世の中がある』があったこと。

『真っ暗闇の中で聞く音楽』について。
『同じ暗闇の中で、同じ音楽を聴いている、同じ気持ちの人たちが居ることを感じる』ことについて。
『もとの生活に戻ったとしても、世の中の裂け目で一瞬だけみたもの、聞いたことは絶対に忘れない』ことについて。
正直、このライブが全編真っ暗だったとしても良いかな、と思いました。
そのくらい、感じることがあった。
感じまくった。

朗読については全く拍子抜けの方々がいたかもしれませんが、私はそういうことなんだ、理解しています。これらは「うさぎ!」で予習済みの方であればすんなりと入ってきた事だと思います。
自分が見聞きしてきて感じたことを来ている人たちに伝えている。
決して上から目線ではなく、共有して欲しいから言っているのだろうな。
「みんな大好きだよー」とか言われるよりも5テラ倍伝わる。
その反応はWebでの反応通りで、ライブが良かったイマイチだったとか言うことよりも、先に書いたリテラシーの高さに通じていると思います。
十分伝わっていたのだと思います。

そして、『同じ暗闇の中で、同じ音楽を聴いている、同じ気持ちの人たちが居ることを感じる』
これが、正にで、そうじゃないこのライブの今の状況ってありえないと。
ここから続く2時間半がその通りの時間だったし、全力で楽しむ用意はできてたし。
それは「懐かしい」じゃなくて、なんとも明文化しにくい、想いのカタマリみたいなものです。
新曲「時間軸を曲げて」の歌詞を引用するならば『ありがとうという言葉で失われしもの』。



1曲ずつ感想を書いていくと本が書けるくらいになるので、ポイントだけ。


先にも書きましたが、私は幸いにも相模大野の初日に行くことができました。
2回目に行った浜松公演との違いは、初日は小沢と客のテンションが高すぎるということ。もちろん良い意味で。
目の錯覚ではなく、節々で小沢が涙ぐんでいる。

全編、大合唱。小沢自身も「歌って!」というジェスチャーで煽るわけですよ。煽るまでもなく大合唱なんですが。この合唱。
あと、決まりものも観客が完全にわかってる。
「プラダの靴が欲しいの~」で「オー!」とか、「バーラーバー」で両手を挙げて左右に振るとか、ドアノックダンスとか。
もう、恥ずかしいとか無いわけですよ。
中年の同窓会と言われたらそう思った方にはそれまでですが、そこまで完璧にみんなが覚えているっていうこと、本当に待っていたんだと言うこと。過去のものでは全然無い。
殆どが事前にアナウンスされていたとおりのヒットパレードであったのだけれど、果たしてこんなにポップでグサグサ来る音楽がどれくらいあるんだろうか。
音楽以外のもの、映画、小説、詩、絵画、写真、彫刻、いろいろひっくるめてもそうありませんよ。
曲順とか、演出とか、ことごとく楽しくて、飽きさせず、立ちっぱなしで終わる頃には足がつりかけました。
終わってからは歌いすぎて喉かれる。

相模大野でとても感慨深かったのは、「強い気持ち強い愛」が終わった後に、ずっとずっと拍手が鳴りやまず、鳴りやまず、その後に小沢が言った『ご無沙汰しております』という一言。
この一言が、待っていた私たちに最大限の感謝を現していたんだろうな、と思っています。
カッコつけた一言でなく、野音フリーコンサートでの「今日は来てくれてありがとう、マジで」でもなく、大人になった分なのか、品が良い。小沢は、本当に育ちが良いんだな、と思った瞬間でもあります。
ひふみよサイトで半ば否定的であったセルフプロデュースへの否定的な態度と照らし合わせたとしても素敵な一言。
朗読で言い続けた価値観の相対性の話しを含んだとしても、誠実な一言。
もうね、この一言が聞けたことが嬉しい。こちらこそ、ご無沙汰しておりました。
浜松会場では、一度聞いているライブだからということもあり、相模大野で残した疑問を確認する目的もあり、かなりしっかり聞くことが出来ました。
朗読も相模大野では若干早口で節々何言ってるかわからないところもありましたが、浜松では読み聞かせるようなスピード。
殆どの方が理解できたんだろうと思います。
朗読は同意が必要ない、世の中の矛盾について否定的であるようで、断言しない、不思議な内容。




で、ポイントの話しです。




今回のライブで既存曲の歌詞をいくつか変えています。
重要な部分だけピックアップしていきます。
これらは、先日相模大野と神奈川県民ホールのライブ後の同士会渋谷(小沢好きが集まって飲んでた)でのアジェンダに乗っ取っています。



■スティーリー・ダン問題
「天使たちのシーン」の歌詞で『真夜中に流れるスティーリーダン、遠い街の物語話してる』という部分がありますが、それを今回は
『真夜中に流れる銀杏並木、この街の物語話してる』に変更しています。
これが一番重要でわかりやすく、全ての朗読とリンクしていて、「うさぎ!」や「企業的な社会、セラピー的な社会」での価値観話ともリンクしています。

ところで、私の小沢最重要曲であるこの曲、ひふみよではフェイクを入れまくりすぎて別の曲になってました。
淡々と綴る愛すべき日常ではなく、愛おしくてたまらないこの大きな世界という歌に変貌を遂げました。




■夢が夢なら問題
「夢が夢なら」のレコーディング版のラストは『行きつ戻りつゆくよ船を』で結んでいるのですが、今回のライブではその節を歌わず。
ヒアリングの結果、どのライブでも歌われていない様です。
これも時間軸の話し。
「夢が夢なら」という歌が割と仏教的というか、輪廻を感じさせるというか、生死感が前面に出ている季節の数え歌なのです。
最後の『行きつ戻りつゆくよ船を』がある場合は『お釈迦様の手のひらの上で回り続ける運命』というLet it beの様なイメージですが、この歌詞を歌わないとすると、方向が定まらない。ベクトル、力点が定まらないのです。
ベクトルをあえて無くしたことにより、力学な感じが無くなって、もっと自由にぼくらは時間を行き来できるという印象。



■感じたかった問題
これも超重要。
「ラブリー」では『それで Life is comin' back ぼくらを待つ』を『それで 感じたかったぼくらを待つ』に変更し、『Can't see the way it's a』を『完璧な絵に似た』に変更。
これはライブ中盤で"みんなで練習を"して(アルバム「球体の奏でる音楽」でそういう曲がありましたが)まで歌いたかったこと。
韻も同じ。
アンコールの2曲目「愛し愛されて生きるのさ」に前にも『それじゃ、感じたかったぼくらを待つ曲をもう一曲』なんつって演奏していました。
果たして「感じたかった」ことはなんだったのか。
まるで、英語みたいな文法。
随分昔に習ったのであいまいなのですが、英語ではifが入るとその後は過去形か過去分詞だったかと。
感じたかったこと、というのは過去形である体でこれから起こることを望んでいるのは文字面のまま。
『感じたかったこと』は『今』のことですね。
時系列がわかりにくくなってますが。



■わかってきてる問題
「いちょう並木のセレナーデ」の最後の『アイム・レディ・フォー・ザ・ブルー』を『わかってきてる』に変更。
『アイム・レディ・フォー・ザ・ブルー』の結びが何故『わかってきてる』のか?
そもそも、ブルーの用意ができてるのは誰だったのか。
自分ではないあなたであったはず。
だったとしたら『わかってきてる?』という疑問形なのでは。
『私』ではない『あなた』に『そろそろわかってきたのね』と言われる。そう言われる気持ち。長い時間をかけて気付いたことを一言にまとめたのでは。
張り裂けそうな想いを歌い上げ、その内側の気持ちを醸成して自分の言葉ではなく『あなた』から言われることの方が幸せなラブソングになるという解釈です。




■我ら時を行く問題
ライブ最後の曲「愛し愛されて生きるのさ」の間奏(語り)部分のラストにある『You've got to get into the groove』が『我ら時を行く』に変更されています。
特殊相対性理論みたいなもんで、時間なんてものはエネルギーの塊で決して一方通行ではない。向かう方向も1方向だけではない。空間も同じ。その一方ではないということに意味がある。
私なりの解釈だと『13年ぶりのライブが過去の焼き直しの様に感じたとしても、そこに戻っているのではなくて、時間というのはルービックキューブの表面にあるいろいろな色の様に同時に存在しているものなんだから、それを否定することなんか全然無い。我々はそんな時を生きている』ということなのでしょうか。
これは小沢健二に限ったことではなくて、全てのファン意識でしょう。
意訳しすぎでしょうか。




□総論
以上のアジェンダを振り返ると、割と全てに共通するのが「時間」の問題。
今回のライブが13年ぶりであるにもかかわらず、後期の曲を殆ど(麝香くらいしか)演奏せず、とにかくピークであった自分の曲を歌いまくっていた。
そして、我々も歌いまくっていた。
自分自身を大衆音楽である、そうありたいという想いが凄く強い。
だからこその選曲。
POPであるということは迎合するということではなくて、もっと沢山の人たちに伝える為の手段というだけでもなくて、純化する程にPOPになっていくのでしょう。
太宰治、村上春樹、三島由紀夫、谷崎潤一郎、岩井俊二、ロバート・アルトマン、ウディ・アレン、カート・コバーン、ジョン・レノン、宮崎駿。
そして、受け入れられる。
まるで、我々の為に準備されたものの様に。

13年は空白ではなくて、醸成期間なんだとか、ただの空白とか言う人もいるかもしれないけれど、そうでななくて、過去と現在は直結しているのですよ。
過去の自分に決別して、成長した気になるって一体何?っつうか、成長って何?切り捨て?そうじゃないでしょ。観てきたモノ、聞いてきたモノ、感じてきたもモノ、全部。
それこそ、その時間をただの経過としたとしたら、オッサンの「昔は良かったねぇ・・」でしかない。流れて過ぎていったものだとしたらそれはとてもつまらない。
今でも、昔でも好きなものは好きだし、その時が無ければ今が無い。今がなければ過去も無い。






彼が世界中を旅行して、いろんな国の音楽を耳に入るまま聴聞き、大衆音楽が同じことを歌っていることを感じ、音楽家として大衆音楽が求めていることを歌う。やろうと思ってもそのまま出来る人はあんまりいません。
馬鹿な人が聞くとただの自己完結した理想主義的なことに思えるかもしれなし、もっと馬鹿な人が歌うと陶酔で何言ってるかすらわからない。
それらと小沢が決定的に違うのが、決して断定はしていないのです。ちゃんと聞くと、不思議に断定がない。「僕はこう思うんだけど、別に強要はしない。どうせわからないでしょ?」っていう距離。
「いちごが染まる」や「シッカショ節」もそう。
まとめてしまってはいけないんだけど、歌詞がよく聞き取れてないので避けたいのですが、印象としてはやっぱり迷いがない。
でも、今となってみれば、小沢が撒いた種を育てて、育て続けているわけで、我々は完全にそっち側なんですよ。未だにその境地には行けてませんが。
誰かの、圧力的な決定に対しても自分自身の嗅覚で判断するということはとても勇気のいることです。
生活の全ての面でそれをやることは難しいですが、根本をそこに置くことがとても大事。

ひふみよツアーでは、主に朗読で『全ての人の幸せなんて相対的なもので、他からなんか言われるとかどうでもよくて、自分が何が幸せかどうかがってことでしょ?』ってことを伝えています。
『完璧な絵に似た』ものは、自分が『完璧な絵』を知っているかどうかということ。それさえ知っていれば商業的絶対主義なんて恐るるに足らずなのです。


少なくともあのライブ会場にいた人たちは楽しすぎる時間を知っている訳です。そこが幸せライン。
そうでなかったとしても、それはその人たちが感じることであって、強要することではない。
個人で完結するんじゃなくて、誰かと共有できること。
キモチワルイかもしれないけれど、本当にそう思った。

ツアー終了後にひふみよサイトに小沢が乗せた文言に新曲「時間軸を曲げて」の歌詞を引用した謝辞が掲載されています。
『ありがとうという言葉で失われしものに誓うよ/磯に波打つ潮よりも濃く我の心はともにある』
一見難解な詩を超意訳すると下記になりました。
『ありがとうという言葉で削られてしまった他にいっぱいあるミネラルみたいな感情の成分を決して忘れない。だからと言って、ありがとうじゃない訳じゃない。それだけで著したくないだけ。/長い時間をかけて岩を穿つ雨垂れよりも、南アフリカの遙かなる断崖絶壁を削り取る力強い海の波よりも、もっと濃密な強い気持ちをあなたに伝えたいのだ』
完全に私見です。



いつもと全然ちがうぼくらの在り方もあって、その世界で同じ気持ちの人がいることを感じる。
人が感動するものは、それほど変わらない。
ぼくらはそれほど違わない。


拝啓
小沢健二様
あなたが撒いた種は、ちゃんと育っていますよ。


そういうことで良いのだと思います。


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5 コメント

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ありがとうございます (ゆみち)
2010-07-12 13:13:37
浜松市在住、はまホール公演に行ったものです。とてもとても特別な時間を過ごして、未だに恍惚とした状態なのですが、周囲に語り合える人がおらず、ネットをさまよっていてあなた様のブログに巡り合えました。
私の心に響きましたよ。疑問に思ったり、胸にあふれた想いを鮮明にすることができました。ありがとうございました。
私も思います、小沢さんのまいた種が私の中でスクスクたくましく育ってますよって。
なんと! (juraky)
2010-07-13 02:02:12
浜松でニアミスしていた方ですか。ありがとうございます。
私は浜松で小沢のライブを聴くのは高校生以来。浜松市出身者です。現在横浜ですが。
超私見ですが、あのとき感じたことと、今回感じたことにあまり差がないし、もっと具体的に感じられました。
育ってるんですね。たくましく。
ファンになりました (mocona)
2011-01-03 22:24:42
こんにちは。
もともと、ブギーバックは好きだったのですが、大好きなフィッシュマンズの佐藤君がこの曲すきだったり、ファンであるKREVAが、カバーしたりして、いまさらながら、LIFEを購入し、ずっと聴いています。
いちょう並木のセレナーデの歌詞の意味が分からず、いろいろ探していて、このブログにめぐりあいました。

『完璧な絵に似た』ものは、自分が『完璧な絵』を知っているかどうかということ。それさえ知っていれば商業的絶対主義なんて恐るるに足らずなのです。

と言う言葉、心に強く響きました。どうもありがとうございました。
Unknown (juraky)
2011-01-04 21:04:24
>>moconaさん
コメントありがとうございます。
完璧にイチファンの私見まみれなのです。
これまでもこれからもずっと聴き続けていきましょうか。
わおー (mocona)
2011-01-04 22:22:14
ありがとうございます。はい、そうします。