神が宿るところ

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御霊山(茨城県守谷市)

2021-08-14 23:29:02 | 伝説の地
御霊山(ごりょうやま)。大木山霊山。
場所:茨城県守谷市大木。茨城県道58号線(取手豊岡線)「常総運動公園入口」交差点から東へ約350m、「四季の里公園」の案内板が出ているところを左折(北へ)、約90m進んだ突き当りを左手(狭い方へ)の道路に入り、約300m。駐車場なし。手前の突き当りを右手に道なりに約400m進むと、「四季の里公園」の駐車場があり、そこに駐車して南西に約70m進む(その道路の東側が「御霊山」)方が便宜かもしれない。
「御霊山」は、伝説によれば平将門には7騎の従臣(あるいは7人の影武者)がいたが、ついには討たれ、その7騎の武者を憐れんで村人が墓に葬ったという場所である。「守谷町史」(昭和60年)では、堂宇等がないにもかかわらず「寺院」の項で扱われているほか、3枚の板碑の写真を示して「将門の七人の影武者の供養塔ではないかといわれている」という記述がある。現在では板碑はないようだが、「御霊権現」という石祠などが祀られている。「御霊」というのは、祟る怨霊を祀って平穏を願う信仰とされ、東京都千代田区の「将門の首塚」が1つの典型かもしれないが、当地では「祟る」という話は聞かない。
また、「守谷町史」では、軍記物語「将門記」の書かれた場所との説があることにも触れている。「将門記」は、著者も、書かれた時期も不明とされているが、「守谷町史」では、書かれたのは天慶6年(946年。将門の死からわずか6年後)とし(根拠不明。なお、「将門記」巻末近くに「天慶三年六月中記之」とあるが、通説では否定的で、実際には10世紀末~11世紀末頃とする説が多い。)、山崎謙という人の説として「将門記を記した人は、将門にゆかりのあった大木の僧侶で、この人が守谷の大木山連乗院に入山して、そこで書いたものであろう。本来ならば、将門が開山したといわれる筒戸の禅福寺で書きたかったであろうが、そこでは書けない事情があった。」というのを紹介している。これに対して、「傍証する資料はあまり残されていない」としているのだが、現・茨城県つくばみらい市の「普門山 禅福寺」(前項)が元は「真福寺」と称していて、「将門記」の古写本が「北野山 真福寺 寶生院」(現・愛知県名古屋市中区)で発見され、一般に「真福寺本」と呼ばれているところから、2つの「真福寺」には「何等かの関連性があったものと考えられる」とも書いている。かなり根拠薄弱な気もするが、どうだろうか。


写真1:「御霊山」入口


写真2:石段を上って行くと、左手に大師堂がある。


写真3:正面に石祠を祀る小堂


写真4:堂内の石祠。「御霊権現」と刻されている。


写真5:「御霊権現」の裏手は一段高くなっていて、多少傾斜がある。古墳のような形状にも見えるが、実際には、舌状に伸びた台地の一部のようである。
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