新田目城跡(あらためじょうあと)。
場所:山形県酒田市本楯字新田目89。JR羽越本線「本楯」駅から東へ約500m。駐車場有り(「酒田市北部農民センター」)。
「新田目城跡」は、最後の出羽国府と推定されている「城輪柵(跡)」の西、約2kmのところにある中世の城館跡で、出羽国司の留守職の居館との伝承がある。古代、国司に任命されながら現地に赴任しないこと(遥任)があり、平安時代末期には常態化した。国司による統治が有名無実化する中で、国司の代わりに収税・治安維持などを行ったのが留守職とされる。「新田目城跡」は、その主郭とされる現「(本楯)大物忌神社」及び「酒田市北部農民センター(旧・本楯小学校跡)の敷地は一辺が約130mの不整方形で、土塁や水堀の一部が現存している。また、古い地籍図などで見ると、東側にある3つの寺院(「正伝寺」、「悦岩寺」、「梵照寺」)の境内地もかつて堀で囲まれていたことが確認でき、さらに字地番の連続などから、東西約600m、南北約200mに及ぶ東西に長い不正長方形の外郭があったとみられている。また、安倍親任が慶応2年(1866年)に記した「筆濃餘里(ふでのあまり)」の「庄内廃城考」の中で、「古来留守殿ノ館ト称ス」としている。こうしたことなどから、「大物忌神社」境内地が昭和32年に山形県指定史跡となった。
伝承によれば、元々「出羽国府」(「城輪柵跡」)の国司に代わって職務を行う「留守殿」の居館があり、源義家が「出羽国留守職」として康平5年(1062年)に須藤氏を派遣すると、須藤氏によって「新田目城」として改修された。「後三年合戦」の陣立てには須藤主馬首助清という人物が見えるが、その後、須藤氏はその役職から留守氏を名乗るようになり、長く当地を支配したという。しかし、慶長5年(1600年)の「関ヶ原合戦」の際、当時の庄内領主・上杉家に従って西軍側に与したため、敗北して所領を没収され、その後帰農したとされる。そして、「新田目城」は、慶長20年(1615年)の「一国一城令」により元和年間(1615~1624年)に廃城になったという。
さて、昭和57~59年、「酒田市北部農民センター」建設に伴う発掘調査が行われ、調査面積約720平方メートルについて、溝状遺構12条、掘込遺構1基、埋桶遺構4基、小柱穴28基が発見された。少なくとも2時期以上にわたる建物があったとみられるが、どのような建物があったか復元できていない。なお、土坑からは平安時代後期の木製祭祀具が発見された。土器や陶器の出土物の中で、須恵器は9世紀初期まで遡れるものがあり、1点のみではあったが8世紀半ば頃まで遡り得るものがあった。また、出土した土器の大半を占める赤焼土器は、11世紀代に比定できるとされた。このほか、中世陶器類、北宋銭・唐銭・明銭などの古銭などが出土し、想定される年代は、8世紀中葉、11世紀代、14世紀代、15~16世紀代と長期にわたるとされた。このように、当遺跡の創建年代は確定できず、平安時代(後期)に遡る可能性もあるが、もっと後代のものという説も強いらしい。
なお、「大物忌神社」(通称:「本楯大物忌神社」)については、社伝によれば、天平年間(729~49年)に、出羽国一宮「鳥海山大物忌神社」の分霊を勧請したのが始まりという。「後三年合戦」(1083~1087年)の際、源義家が当神社で戦勝祈願を行い、勝利したことから、太刀を奉納したと伝えられている。その太刀は現存しており、無銘ながら鎌倉時代初期頃のものと鑑定され、革包鞘・革塗鐔・切羽が残存する貴重なものということから、大正11年に国指定重要文化財(工芸品)に指定されている。祭神は大物忌神で、旧社格は県社であった。
「山形の宝 検索navi」のHPから(新田目城跡)
写真1:「新田目城跡」説明板と堀。「酒田市北部農民センター」入口付近から東側を見る。右手奥は「大物忌神社」、左手奥は「正傳寺」。
写真2:堀と土塁。堀の東側から西側を見る。土塁の左側(南側)は「大物忌神社」境内。
写真3:「大物忌神社」鳥居と標柱、「史跡 新田目城跡」の標柱(黒い石碑)
写真4:「大物忌神社」社殿。青いネットは雪対策(冬支度)だろうか。
場所:山形県酒田市本楯字新田目89。JR羽越本線「本楯」駅から東へ約500m。駐車場有り(「酒田市北部農民センター」)。
「新田目城跡」は、最後の出羽国府と推定されている「城輪柵(跡)」の西、約2kmのところにある中世の城館跡で、出羽国司の留守職の居館との伝承がある。古代、国司に任命されながら現地に赴任しないこと(遥任)があり、平安時代末期には常態化した。国司による統治が有名無実化する中で、国司の代わりに収税・治安維持などを行ったのが留守職とされる。「新田目城跡」は、その主郭とされる現「(本楯)大物忌神社」及び「酒田市北部農民センター(旧・本楯小学校跡)の敷地は一辺が約130mの不整方形で、土塁や水堀の一部が現存している。また、古い地籍図などで見ると、東側にある3つの寺院(「正伝寺」、「悦岩寺」、「梵照寺」)の境内地もかつて堀で囲まれていたことが確認でき、さらに字地番の連続などから、東西約600m、南北約200mに及ぶ東西に長い不正長方形の外郭があったとみられている。また、安倍親任が慶応2年(1866年)に記した「筆濃餘里(ふでのあまり)」の「庄内廃城考」の中で、「古来留守殿ノ館ト称ス」としている。こうしたことなどから、「大物忌神社」境内地が昭和32年に山形県指定史跡となった。
伝承によれば、元々「出羽国府」(「城輪柵跡」)の国司に代わって職務を行う「留守殿」の居館があり、源義家が「出羽国留守職」として康平5年(1062年)に須藤氏を派遣すると、須藤氏によって「新田目城」として改修された。「後三年合戦」の陣立てには須藤主馬首助清という人物が見えるが、その後、須藤氏はその役職から留守氏を名乗るようになり、長く当地を支配したという。しかし、慶長5年(1600年)の「関ヶ原合戦」の際、当時の庄内領主・上杉家に従って西軍側に与したため、敗北して所領を没収され、その後帰農したとされる。そして、「新田目城」は、慶長20年(1615年)の「一国一城令」により元和年間(1615~1624年)に廃城になったという。
さて、昭和57~59年、「酒田市北部農民センター」建設に伴う発掘調査が行われ、調査面積約720平方メートルについて、溝状遺構12条、掘込遺構1基、埋桶遺構4基、小柱穴28基が発見された。少なくとも2時期以上にわたる建物があったとみられるが、どのような建物があったか復元できていない。なお、土坑からは平安時代後期の木製祭祀具が発見された。土器や陶器の出土物の中で、須恵器は9世紀初期まで遡れるものがあり、1点のみではあったが8世紀半ば頃まで遡り得るものがあった。また、出土した土器の大半を占める赤焼土器は、11世紀代に比定できるとされた。このほか、中世陶器類、北宋銭・唐銭・明銭などの古銭などが出土し、想定される年代は、8世紀中葉、11世紀代、14世紀代、15~16世紀代と長期にわたるとされた。このように、当遺跡の創建年代は確定できず、平安時代(後期)に遡る可能性もあるが、もっと後代のものという説も強いらしい。
なお、「大物忌神社」(通称:「本楯大物忌神社」)については、社伝によれば、天平年間(729~49年)に、出羽国一宮「鳥海山大物忌神社」の分霊を勧請したのが始まりという。「後三年合戦」(1083~1087年)の際、源義家が当神社で戦勝祈願を行い、勝利したことから、太刀を奉納したと伝えられている。その太刀は現存しており、無銘ながら鎌倉時代初期頃のものと鑑定され、革包鞘・革塗鐔・切羽が残存する貴重なものということから、大正11年に国指定重要文化財(工芸品)に指定されている。祭神は大物忌神で、旧社格は県社であった。
「山形の宝 検索navi」のHPから(新田目城跡)
写真1:「新田目城跡」説明板と堀。「酒田市北部農民センター」入口付近から東側を見る。右手奥は「大物忌神社」、左手奥は「正傳寺」。
写真2:堀と土塁。堀の東側から西側を見る。土塁の左側(南側)は「大物忌神社」境内。
写真3:「大物忌神社」鳥居と標柱、「史跡 新田目城跡」の標柱(黒い石碑)
写真4:「大物忌神社」社殿。青いネットは雪対策(冬支度)だろうか。
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