神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

将門の首塚(埼玉県幸手市)

2021-06-19 23:38:11 | 史跡・文化財
将門の首塚(まさかどのくびづか)。
場所:埼玉県幸手市神明内1469-1(「浄誓寺」の住所)。国道4号線と埼玉県道371号線(下吉羽幸手線)の「幸手市役所入口」交差点から県道を東に約2kmのところ(「浄誓寺」の小さな案内看板がある。)で右折(南へ)、約400m。駐車場有り。県道から入る道路は狭いので注意。
「平将門の首塚」というと、東京都千代田区大手町にあるのが有名だが、埼玉県幸手市の浄土真宗東本願寺派「通光山 平親院 浄誓寺」境内にもある(全国では10数ヵ所あるらしいが・・・。)。本堂裏に高さ約3mの塚があり、その上にかなり風化した五輪塔が建てられている。ここに、「承平天慶の乱」において天慶3年(940年)、平貞盛・藤原秀郷等の連合軍と戦って討ち死にした平将門の首が埋められたとの伝承があり、幸手市指定史跡となっている。将門が討たれたのは、軍記物語「将門記」によれば「辛島郡北山」とされるが、その場所は不明である。「辛島郡」というのは「幸島郡」の誤りで、「猿島郡」であるということについては異論がないが、「北山」がどこかには諸説ある。終焉の地に創建されたという現・茨城県坂東市の「國王神社」(2012年10月6日記事)付近が最有力のようだが、同地から当地までは直線距離で約13km。途中の利根川は江戸時代に開削された流路で、古代には現・埼玉県杉戸町の西側を流れる大落古利根川が利根川の本流で、それが下総国と武蔵国の国境であったらしい。よって、当地も下総国領内であったことになる。当地の伝承では、将門が討たれたとき、家臣が首だけを運んできた、あるいは愛馬が首を咥えて運んできた、とされる。将門の首は、京都に運ばれて晒し首になったということが史実で、その後、首が飛んで関東に向かったというのが伝説だが、当地の伝承が正しいとすると、晒し首になったのは誰なのだろう? 
さて、「浄誓寺」は慶長9年(1604年)、久念の開基という。久念は、元は広川民部通光といい、和泉国堺(現・大阪府堺市)の生まれで、浄土真宗の門徒として、織田信長と石山本願寺との戦いにも参加したが、両者の和睦により、関東に下った。縁あって当地の草庵に辿り着くと、勧められて堂守となり、入道して当寺院を開いたとされる。当然ながら、当寺院の開山よりも首塚の方が早いはずだが、もともと草庵があったということなので、将門を供養するような人物がいたのかもしれない。因みに、当寺院境内に薬師堂があるが、薬師如来は将門の守り本尊で、当寺院三代目の久信が祀ったともいわれる。将門に限らず、有名人の墓とされるものは全国各地にあるが、必ずしも遺骨が埋葬されている場所とは限らない。当寺院についても、「平親院」という院号から後世「平親王」と称された将門が連想されて、境内の古墳が将門に結び付けられた可能性もあるようだ。なお、当地の北東の幸手市木立(きだち)は旧・木立村で、将門滅亡後に子孫が隠れ住んだ場所であるとして、元は「公達村(きんだちむら)」と称したという伝承がある。当地の「将門の首塚」自体には怨霊の祟りなどといった話は聞かないが、近くに、将門の血が木を赤く染めたことから名付けられた「赤木」という地名があって、この血の付いた木は何日経っても赤いままで、衣冠束帯を纏った人物が夜な夜な現れて徘徊したため、この木を御神体として将門を祀り「赤木明神」と称したと言う伝説があるとのこと。


幸手市観光協会のHPから(将門の首塚)

幸手市のHPから(「将門の首塚」の歴史)


写真1:「浄誓寺」山門


写真2:同上、本堂。本尊:阿弥陀如来


写真3:同上、「将門の首塚」。本堂の裏にある。本堂の影がかかっている。


写真4:同上


写真5:同上、塚上の五輪塔。かなり風化している。五輪塔は普通、宇宙の構成要素を表すように、下から方形(地輪)、円形(水輪)、三角形(火輪)、半月形(風輪)、宝珠形(空輪)の石材などを積み上げて造る。一番下の方形とその上の円形の石は中世のものとされ(上の3つは江戸時代以降の後補)、「(旧)北葛飾郡内最古の五輪塔の可能性が高い」(埼玉県教育委員会)らしい。


写真6:同上、薬師堂。山門から入って直ぐ左側にある。


写真7:「浄誓寺」から南西へ約750mのところにある「(赤木)集会所」。その敷地の道路沿いに石碑が立ち並んでいるが、その後ろに小祠がある。これが「赤木明神」だろうか。もちろん、近くに赤く染まった木はなく、元からここにあったかどうかも定かではないが、当地が旧・赤木村であったと思われる。


写真8:「赤木明神」? 小祠の中に小さな狐像があること、屋根の装飾に如意宝珠の図案があることから、祭神としては「稲荷神社」ではないかと思われる。


写真9:「浄誓寺」から南西へ約250mのところにある「香取神社」鳥居。「浄誓寺」の「将門の首塚」を紹介するブログ等では、この「香取神社」を「赤木明神」としているものが多い。どちらが「赤木明神」なのか断言できないので、念のため掲載。


写真10:同上、社殿

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 穴薬師古墳(茨城県五霞町) | トップ | 龍燈山 永福寺 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

史跡・文化財」カテゴリの最新記事