神が宿るところ

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常陸国の古代東海道(その2・榎浦津駅)

2022-02-05 23:25:46 | 古道
「常陸国の古代東海道(その1・榛谷駅)」(2022年1月22日記事)で書いたが、「常陸国風土記」(養老5年(721年)成立)では、古代東海道の常陸国最初の駅家は「榎浦津(えのうらのつ)」駅だが、「延喜式」(延長5年(927年)完成)には「榎浦津」駅家の記載はなく、常陸国最初の駅は「榛谷」駅になっている。この間に、古代東海道のルート変更があったことによるものとみられるが、厳密にいえば、「常陸国風土記」には「榎浦之津」に駅家がある、と書かれているだけで、駅名はない(このため、資料によっては「榎浦」駅と称しているものもある。)。そこで、「榎浦津」駅と「榛谷」駅を同じ場所とする説もあり、別とする説も比定地には諸説ある。現・茨城県稲敷市のどこか、ということはおおむね一致するが、具体的には、江戸崎(「榎浦」と音が似ている、小野川河口に「榎浦」という浅い沼があった(現在は干拓され、稲波という地名になっている。))、羽賀(「榛谷(ハンタニ、ハンダ?)が訛ったもの)、下君島(古代廃寺跡がある等)など。そうした中で、現在、「榎浦津」駅の比定地として有力になっているのが、柴崎である(旧・新利根町)。
「常陸国風土記」によれば信太郡の南は「榎浦の流れ海」で、これが下総国との国境でもある。標高などからみて、古代信太郡の南端とみられる旧・新利根町中心部辺りは古代でも陸地で、東に舌状に伸びた半島になっていて、柴崎の西部は南に突き出した岬だったと思われる。そうすると、下総国から船で「香取海」を渡ってきた柴崎付近に港(津)があるのが自然で、羽賀や下君山、江戸崎では、岬を回っていかなければならないので船による距離が長くなり過ぎるのではないかと思われる。柴崎を南北に流れて新利根川につながる用水路があるが(「柴崎橋」の東側に堰がある。)、その用水路の東側、新利根川の南側が「榎浦流海」(「香取海」の一部)だったのではないか。とすると、「延喜式」のルートでは遠回りになるので、「榎浦津」駅と「榛谷」駅は別の場所だったと考えられる。「榎浦津」駅家の具体的な場所は、周囲より一段高くなっている現・「新利根小学校」付近と推定され、その微高地の東端にある「新宿遺跡」からは古墳時代~中世の土器の散布がみられるという(茨城県教育庁文化課「古代東海道と古代の道」)。
蛇足:軍記物語「将門記」には、承平6年(936年)、平良兼が平良正(平将門の叔父だが、敵方)に味方するため、上総国武射郡から下総国香取郡の神前の津を経て常陸国信太郡の苛前の津に渡り、そこから良正の根拠地「水守営所」(「水守城跡」(2020年9月5日記事))に着いた、という記述がある。このとき、良兼は上総・下総の国司とのトラブルを避けるため「少道」(間道)を通ったとされるので、古代東海道のルートではなく、「神前の津」から常陸国に渡ったらしい。「神前の津」というのは、下総国式外社「神崎神社」(2014年2月15日記事)が鎮座する丘(現・千葉県神崎町)が当時は「香取海」に突き出した岬のようになっていたので、その付近が津(港)になっていたと思われる。「苛前の津」(「苛」は原文では草冠に奇。この字はどの辞書にもないが、「エ」と読ませるようである。よって、「えのさきのつ」というのだろう。)は「榎浦之津」と同一とみられるが、確証はない。もし、それが「榎浦之津」と同じなら、少なくとも平安時代中期まで「榎浦之津」は機能していたことになろう。


写真1:現・稲敷市柴崎の「柴崎用水路」。新利根川につながる「柴崎堰」から北を見る。背後(南側)に新利根川が東西に流れている。古代には、この用水路の左側(西)が陸地、右側(東)が「香取海」で、その陸地側に「榎浦之津」(港)があったのではないだろうか。


写真2:水路に沿って長い真っ直ぐな道路がある。左手の方が高く、左手の方が低くなっているのがわかる。右手は住宅地、左手は水田である。


写真3:「柴崎橋」の北、約200mのところにある神社。立派な鳥居もあるが、地図にもない小社で、詳細不明。


写真4:新利根川。江戸時代寛文年間に付け替えられた利根川の新川。利根川の北を東西に流れている。
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