結城廃寺跡 附結城八幡瓦窯跡(ゆうきはいじ つけたりゆうきはちまんかわらがまあと)。
場所:茨城県結城市上山川。県道20号線(結城坂東線)「矢畑」交差点の1つ南の交差点を東に入り、約400m。「結城市上山川就業改善センター」(住所:結城市大字上山川乙38)への道路の角に、写真1の案内表示があり、同センターの前に写真2の説明板がある。駐車場は、同センター駐車場を利用。
JR水戸線「結城駅」の南約4.5km、また「備中塚古墳」(前項:2012年8月18日記事)の南西約1kmのところに、「結城廃寺跡」という古代寺院の遺跡がある。8世紀前半頃に建立され、10世紀頃に一度火災で焼失したが、鎌倉時代に再建されて室町時代中頃まで存続した寺院の跡だとされている。発掘調査によれば、寺域は東西約180m、南北250mという広大な敷地に、南向きで、回廊のある中門を入ると、塔(東側)と金堂(西側)が並び立ち、奥に講堂、僧坊が建てられていた(いわゆる「法起寺式伽藍配置」)と推定されている。
出土品では、塔心礎舎利孔の石蓋や「せん仏」(粘土で型押しした小さな仏像)など珍しいものも見つかっているが、「法城寺」と刻まれた瓦が見つかったことも重要である。これは、「将門記」(成立:鎌倉時代?)に出てくる「結城郡法城寺」が実在したことを証明するものとなった。それまでは、「法城寺」は「結城寺」の誤記ではないかとも言われていたものである。
また、「結城廃寺跡」の北東約500mのところに、瓦を焼いた登り窯の跡も発見されている(「結城八幡瓦窯跡」)。この辺りは昔から「瓦塚」という地名で呼ばれていたという。因みに、「結城廃寺跡」の北約16kmのところに、「下野薬師寺跡」(現・栃木県下野市薬師寺)がある。「下野薬師寺」は天武天皇の時代(7世紀末)に創建されたとされており、奈良の國分金光明寺(東大寺)・福岡の筑紫観世音寺とともに天下三戒壇といわれ、東国で正式に僧侶となるには「下野薬師寺」で授戒を受けなければならなかったという大寺であった(道鏡が左遷されて任命されたのが、この寺院の造寺別当でもある。)。また、「結城廃寺跡」の北西約18kmのところに、「新治廃寺跡」(現・茨城県筑西市古郡)がある。これらの古代寺院で使われた瓦は同系統のものといわれており、「結城廃寺」と「新治廃寺」は「下野薬師寺」の影響下で創建されたのではないかとされている。
ところで、結城市に「結城寺」という寺院が現存する。新義真言宗「清浄蓮華山 結城寺」の寺伝によれば、当寺は、正式には「清浄蓮華山 密厳華蔵院 大金剛宝寺(しょうじょうれんげさん みつごんけぞういん だいこんごうほうじ」と号する。白鳳9年(680年?)、鬼怒川の水害に悩んだ当地の有力者が、下野国「薬師寺」を創建した祚蓮(それん)律師を招いて開山したものとされる。祚蓮律師が、鬼怒川岸に壇を設けて薬師如来を安置し、悪竜に戒を授けて水害を鎮め、一寺を開いて「大金剛宝寺」と称したのが始まりという。しかし、結城合戦の兵火にかかり、嘉吉元年(1441年)に焼失、後に結城氏の一族である山川綾戸城主・山川氏重らによって、永禄8年(1565年)頃に上山川(結城廃寺跡)から現在地に移転、再建されたと伝えられている。
結城市のHPから(結城廃寺跡附結城八幡瓦窯跡)
写真1:この表示がある辺りが「結城廃寺跡」の寺域の北限のようだ。右手の道路を進む(南へ)と「結城市上山川就業改善センター」がある。同センター敷地も寺域の一部だったようだ。
写真2:「結城廃寺跡」の説明板。畑が広がるばかりで、寺を偲ばせるものは何もない。
写真3:「結城八幡瓦窯跡」の説明板。こちらも、今は何もない。
写真4:樹木が生い茂っているところが窯跡(南西の道路から)。写真3の説明板は、右手に見える民家の前の農道を右手に進んで回り込んだところにある。
写真5:現在の「結城寺」。「結城廃寺跡」の南、約3.5km(場所:結城市山川新宿101。駐車場有り)。
写真6:同上、本堂
場所:茨城県結城市上山川。県道20号線(結城坂東線)「矢畑」交差点の1つ南の交差点を東に入り、約400m。「結城市上山川就業改善センター」(住所:結城市大字上山川乙38)への道路の角に、写真1の案内表示があり、同センターの前に写真2の説明板がある。駐車場は、同センター駐車場を利用。
JR水戸線「結城駅」の南約4.5km、また「備中塚古墳」(前項:2012年8月18日記事)の南西約1kmのところに、「結城廃寺跡」という古代寺院の遺跡がある。8世紀前半頃に建立され、10世紀頃に一度火災で焼失したが、鎌倉時代に再建されて室町時代中頃まで存続した寺院の跡だとされている。発掘調査によれば、寺域は東西約180m、南北250mという広大な敷地に、南向きで、回廊のある中門を入ると、塔(東側)と金堂(西側)が並び立ち、奥に講堂、僧坊が建てられていた(いわゆる「法起寺式伽藍配置」)と推定されている。
出土品では、塔心礎舎利孔の石蓋や「せん仏」(粘土で型押しした小さな仏像)など珍しいものも見つかっているが、「法城寺」と刻まれた瓦が見つかったことも重要である。これは、「将門記」(成立:鎌倉時代?)に出てくる「結城郡法城寺」が実在したことを証明するものとなった。それまでは、「法城寺」は「結城寺」の誤記ではないかとも言われていたものである。
また、「結城廃寺跡」の北東約500mのところに、瓦を焼いた登り窯の跡も発見されている(「結城八幡瓦窯跡」)。この辺りは昔から「瓦塚」という地名で呼ばれていたという。因みに、「結城廃寺跡」の北約16kmのところに、「下野薬師寺跡」(現・栃木県下野市薬師寺)がある。「下野薬師寺」は天武天皇の時代(7世紀末)に創建されたとされており、奈良の國分金光明寺(東大寺)・福岡の筑紫観世音寺とともに天下三戒壇といわれ、東国で正式に僧侶となるには「下野薬師寺」で授戒を受けなければならなかったという大寺であった(道鏡が左遷されて任命されたのが、この寺院の造寺別当でもある。)。また、「結城廃寺跡」の北西約18kmのところに、「新治廃寺跡」(現・茨城県筑西市古郡)がある。これらの古代寺院で使われた瓦は同系統のものといわれており、「結城廃寺」と「新治廃寺」は「下野薬師寺」の影響下で創建されたのではないかとされている。
ところで、結城市に「結城寺」という寺院が現存する。新義真言宗「清浄蓮華山 結城寺」の寺伝によれば、当寺は、正式には「清浄蓮華山 密厳華蔵院 大金剛宝寺(しょうじょうれんげさん みつごんけぞういん だいこんごうほうじ」と号する。白鳳9年(680年?)、鬼怒川の水害に悩んだ当地の有力者が、下野国「薬師寺」を創建した祚蓮(それん)律師を招いて開山したものとされる。祚蓮律師が、鬼怒川岸に壇を設けて薬師如来を安置し、悪竜に戒を授けて水害を鎮め、一寺を開いて「大金剛宝寺」と称したのが始まりという。しかし、結城合戦の兵火にかかり、嘉吉元年(1441年)に焼失、後に結城氏の一族である山川綾戸城主・山川氏重らによって、永禄8年(1565年)頃に上山川(結城廃寺跡)から現在地に移転、再建されたと伝えられている。
結城市のHPから(結城廃寺跡附結城八幡瓦窯跡)
写真1:この表示がある辺りが「結城廃寺跡」の寺域の北限のようだ。右手の道路を進む(南へ)と「結城市上山川就業改善センター」がある。同センター敷地も寺域の一部だったようだ。
写真2:「結城廃寺跡」の説明板。畑が広がるばかりで、寺を偲ばせるものは何もない。
写真3:「結城八幡瓦窯跡」の説明板。こちらも、今は何もない。
写真4:樹木が生い茂っているところが窯跡(南西の道路から)。写真3の説明板は、右手に見える民家の前の農道を右手に進んで回り込んだところにある。
写真5:現在の「結城寺」。「結城廃寺跡」の南、約3.5km(場所:結城市山川新宿101。駐車場有り)。
写真6:同上、本堂
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