神が宿るところ

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七宝山 医王院 北斗寺

2024-01-13 23:32:49 | 寺院
七宝山 医王院 北斗寺(しちほうさん いおういん ほくとじ)。通称:妙見尊北斗寺、妙見様。
場所:茨城県つくば市栗原1129。茨城県道200号線(藤沢豊里線)「栗原小学校前」交差点から県道を北東へ約300mで左折(北へ)、約500m進んだところの交差点を道なりに左に(西へ)約100m進むと、正面参道入口。同交差点から狭い道路に入って更に北へ約130m進んだところに東側の境内入口があって、こちらのほうが駐車スペースに止めやすい。
寺伝によれば、第33代・推古天皇の時代(6世紀末頃)、周防国青柳浦(現・山口県下松市)の松樹に北辰尊星が降臨し、七日七夜輝いて百済の琳聖太子の来朝を守護した。琳聖太子は、妙見菩薩像・霊符等を推古天皇に上進した後、現・つくば市栗原に妙見菩薩を祀った。これが当寺院の創祀である。弘仁12年(821年)、天台宗の高僧・最仙上人が勅命により堂宇を建立した。鎌倉時代には現・つくば市小田に移り、その後も現・土浦市藤沢、同・田土部と転々とし、万治2年(1659年)に現在地に再建されたという。現在は真言宗豊山派(いつ改宗したかは不明)に属し、本尊は薬師如来。有名な妙見菩薩は、「菩薩」と称するものの、中国において北極星・北斗七星を神格化したものであるため、分類上は「天」部に属する。薬師如来が、衆生を救うために垂迹した(仮の姿で現れた)ものとされる。当寺院は東洋の星占いの寺として、旧暦の正月七日には星祭りが行われ、参拝者で賑わう。特に、商売繁盛、勝負事に御利益があるとされる。また、この妙見菩薩像は亀に乗っていて、長寿を表現しているともいう。なお、「仏儀次第」(鎌倉時代)、「釈迦十六善神面像」(室町時代)、「興教大師画像」(同)、「黄不動明王画像」(同)などの茨城県指定文化財を所蔵している。
蛇足:現・山口県下松市における伝承によれば、推古天皇3年(595年)、周防国都濃郡鷲頭庄青柳浦の老松に大きな星が降り、七日七夜の間、光り輝いた。そして、「われは北辰の精である。これから異国の太子が来朝するので、守護のため降ったのである。」 と告げた。村人らが急いで社を建てて「北辰尊星王大菩薩」として祀った。これが現在の「降松神社」(祭神:天御中主神)と真言宗御室派「妙見宮鷲頭寺」(本尊:妙見大菩薩)の創祀である(近世までは神仏混淆により一体)。北辰の精が松樹に降ったというので、地名を「降松」と改め、その後、現在の「下松(くだまつ)」と書くようになったといわれている。この異国の太子とは、百済国の第26代・聖明王の第三子・琳聖太子といい、大内氏はその子孫と伝えられている。 因みに、琳聖太子は、推古天皇19年(611年)に周防国の多々良浜(現・山口県防府市)に上陸し、聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという。しかし、琳聖太子という人物名は当時の日本や百済の文献に見ることができず、実在性が疑われている。また、大内氏は在地豪族が勢力を伸ばしたもので、百済等からの渡来人出身ではないと考えられているようである。なお、関東では、現・千葉県千葉市にある「千葉神社」(2012年5月5日記事)が妙見信仰の中心になっている。こちらも、江戸時代には真言宗「北斗山 金剛授寺 尊光院」という寺院だったが、明治期の神仏分離により「千葉神社」に改められ、主祭神を北辰妙見尊星王=天之御中主大神としている。同様に、明治以降に寺院から神社になったところが多い中では、本格的な寺院として妙見菩薩を祀る当寺院は貴重なものと思われる。


写真1:「北斗寺」参道入口。寺号標「霊場 妙見大菩薩 別當 北斗寺」


写真2:参道を入ったところにある観音堂(堂本尊:出生子育観世音菩薩)


写真3:山門


写真4:鐘楼


写真5:本堂


写真6:妙見堂(堂本尊:妙見菩薩)


写真7:同上、彫刻と「妙見大士」額
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