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神が宿るところ

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常陸国府跡

2018-01-06 23:42:21 | 史跡・文化財
常陸国府跡(ひたちこくふあと)。
場所:茨城県石岡市総社1-2-10(「石岡小学校」の住所)。国道355号線「国府三丁目」交差点から南に約50mのところ(「筑波銀行石岡支店」の斜め向かい辺り)で右折(西へ)、約400m直進すると「石岡市民会館」に突き当たるので、そこを左折(南へ)、約60mで「石岡小学校」入口。「石岡小学校」敷地内(校門から入って直ぐ)に「石岡市ふるさと歴史館」があり、その前などに駐車スペースあり。
「常陸国府(跡)」は、霞ヶ浦に注ぐ天王川と恋瀬川によって形成された石岡台地に位置し、中枢の国衙は現・「石岡小学校」の敷地内にあって、埋め戻しされている。国衙(現代風に言えば、県庁)部分は平成10年~19年に発掘調査が行われ、7世紀末頃の誕生から11世紀の終焉までの推移が確認できる遺構として貴重な存在とされる。まず、当初は、桁行六間(約10.8m)の南北棟を正殿とし、東西棟の脇殿、南北棟の前殿が整然と並ぶ。8世紀前半には、塀で囲まれた一辺約100mの区画内に、東西棟の正殿、南北棟の脇殿が「コ」字形に配置されるようになった。8世紀中頃~9世紀後半には、中軸線を継承しつつ、正殿が桁行七間(約12.6m)に拡張。その後、1回の建て替えがあったが、正殿の中軸線は維持されて、約300年存続したということになる。なお、常陸国分寺・常陸国分尼寺と同笵(同じ型で造られた)の軒瓦、「国」の墨書銘を有する土器、円面硯等が出土しているとのこと。
因みに、「常陸国府」消滅後は、その跡地を取り込む形で「(常陸)大掾氏」(「大掾」は国司の3等官で、職名から一族の名称となったものとされる。)によって「府中城」(通称)という中世城館が建てられ、「大掾氏(馬場氏)」代々の居城となった。しかし、天正18年(1590年)、佐竹義宣によって攻略され、その後、佐竹氏、六郷氏、皆川氏、松平氏(水戸徳川氏の分家)と城主が変わり、明治まで存続した。


石岡市のHPから(常陸国府跡)

同上(石岡市ふるさと歴史館)


写真1:「石岡小学校」正門。「常陸国府跡」は、グラウンドの下にある。


写真2:「常陸国府跡」碑。


写真3:中世「府中城」土塁


写真4:何故か「箱式石棺」も。
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