神が宿るところ

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続・秋田城跡(鵜ノ木地区)(出羽国分寺 ・その1?)

2015-08-08 23:20:48 | 史跡・文化財
「秋田城」の外郭東門を出て、幅12mの大路を下ってゆくと、南側に建物群の跡と復元された古代水洗式厠舎・古代沼などがある。城の外になるが、この周辺から、「秋田城」の政庁跡に匹敵するような重要な発見があった。
まず、通称「天平の井戸」といわれる井戸跡で、ここから「天平六年」と書かれた木簡が出土した。「続日本紀」に、「天平5年(733年)、出羽柵を秋田村高清水岡に移設した」との記事があり、これを裏づけるものと評価されている。
次に、建物群であるが、「日本後紀」(逸文。「類聚国史」による)によれば、天長7年(830年)に大地震があり、城郭官舎や城の付属寺院とみられる「四天王寺」等が大きな被害を受けたことが記されているが、この「四天王寺」跡ではないかと推定されている。瓦葺でないこと、礎石建物でないこと、塔址が発見されないこと、寺域を画する施設がないこと等の点から、寺院跡ではないとする説も有力であるが、方位を揃えたり、左右対称に配置されたりしていること、「…寺…」銘の墨書土器が発見されたことなどから、「四天王寺」跡であろうと推定されているようだ。また、これらと隣接して古代の水洗式厠舎(トイレ)跡が発見され、復元されている。それ自体も貴重な発見であるが、より重要なことは、沈殿堆積物から豚を常食する人の寄生虫卵が発見されたことで、この厠舎は中国大陸からの来訪者が使ったものとみられている。出羽柵を秋田に移設したことに伴って出羽国府も同地に移したとする通説において、律令政府が治安維持に不安があるにも拘らず、当時辺境であった秋田に敢えて国府を移した理由として挙げられるのは、この中国大陸から来訪者(おそらく「渤海国」の使節等)を接遇するためということらしい。そこで、建物群の性格として「迎賓館」とする説もあるが、歴史的に見れば、寺院が高貴な身分の客の宿舎になるのはよくあることで、寺院兼迎賓館であってもおかしくはないとも考えられる。
残る謎は、この「(秋田)四天王寺」と「出羽国分寺」との関係である。国分寺は、聖武天皇が天平13年(741年)、各国に寺を建立する詔を出している。通説によれば、このとき既に出羽国府は秋田に移っていたから、国分寺も秋田に建立されたとみるのが普通だろう。出羽国府は現・山形県庄内地方から移動しなかったとする説もあるが、少なくとも奈良時代の国分寺跡は(現・山形県でも秋田県でも)未だ発見されていない。国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」であり、国分寺建立の詔が出る前に、「秋田城」の鎮護寺院として「(秋田)四天王寺」が建立されていたとすれば、これを国分寺の代替としたことは十分に考えられる。なお、先の「日本後紀」の記事では、地震で「四天王寺の丈六の仏像が倒れた」という記載があり、この丈六の仏像というのは、釈迦の身長が1丈6尺(=約4.85m)あったというところから仏像の基準サイズとされるもの。よって、本尊がどのような仏かは不明だが、奈良時代からのものであれば、釈迦如来像だったかもしれない。
因みに、京都国立博物館所蔵の大和古印の1つとして重要文化財に指定されている「四王寺印」は、「(秋田)四天王寺」の印として京都「聖護院」末の「積善院」に伝わっていたものである。江戸時代、「聖護院」が修験本山法頭とされた関係から、「古四王神社」別当の「亀甲山 四天王寺 東門院」から「積善院」に流出したものと考えられているとのこと。刻された四文字の印文から「四王寺印」と称されてきたが、よく見ると(下のHP参照)、「四」の字には足がついている。これは、「四」と「天」を合わせて簡略化したもので、この四文字で「四天王寺印」と読むのではないかという説も出てきている。


e國寶HPから(銅印)


写真1:「秋田城」外郭東門の外(東側)から。幅12mの大路があった(側溝から推定)とされている。一段下のところから東門まで約90m、高低差約5mを上る。


写真2:井戸跡。ここから「天平六年」と書かれた木簡が出土した。


写真3:建物跡


写真4:同上


写真5:同上。奥に東門が見える。


写真6:古代水洗式厠舎(復元)。掘立柱建物の中に3つの個室がある。


写真7:同上、裏側。流した汚物を一旦沈殿させて、上澄みだけを沼に流していたらしい。
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