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神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

歌姫明神

2024-04-20 23:33:50 | 神社
歌姫明神(うたづめみょうじん)。古い資料では「歌女明神」としているものが多い。
場所:茨城県桜川市真壁町羽鳥1073。茨城県道41号線(つくば益子線)沿いのコンビニエンスストア「セイコーマート真壁羽鳥店」のある交差点から東に約230mで右折、約90mで突き当り左折(南東へ)、約30mで参道入口。駐車場なし。
詳細不明だが、古代に「嬥歌(かがい)」・「歌垣(うたがき)」が行われていた場所に祀られている神社で、祭神は住吉明神(仲田安夫著「真壁町の昔ばなし」)とされるが、ネット等では稚日女尊(ワカヒルメ)としていることが多く、あるいはその両神を祀るという説もある。「嬥歌」・「歌垣」は、フリーセックスの場のようなイメージもあるが、本来は、未婚男女が集まって求愛歌の掛け合いで相手を探す祭事の要素が強かったらしい。「万葉集」のほか、「常陸国風土記」の筑波郡と香島郡の条に「嬥歌」についての記述があり、特に筑波山の「夫女ヶ石」(2020年10月3日記事)付近が「嬥歌」の場所として有名である。当地は筑波山にも近く、平将門もここの「嬥歌」で正室・君の御前と結ばれたという伝承があるらしい。
蛇足1:稚日女尊は、機織りをしているときに、素戔男尊(スサノオ)に逆剥ぎにした馬の皮を投げ込まれ、驚いて機から落ちて亡くなったという話が「日本書紀」にある。天照大神の別名を大日孁貴神(オオヒルメノムチ)、あるいは大日女尊(オオヒルメ)ということから、その幼名あるいは妹神ともいわれる。ただし、所謂「古史古伝」の1つ「ホツマツタヱ」では、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冊尊(イザナミ)(「筑波山神社」(2020年9月12日及び19日記事)の祭神)の子、すなわち、天照大神など三貴子の兄弟である蛭子神(ヒルコ)、別名・和歌姫であるとする。そして、不具で生まれたために海に流されたのを住吉大神によって拾い上げられ、養育されたという。「ホツマツタヱ」は、「記紀」より古いとする説もあるが、近世の用語や習俗なども含まれ、一般的には江戸時代頃に作られた偽書と考えられている。ただ、書かれた内容は面白く、もっと真面目に研究されてもよいと思われる。なお、「歌姫明神」については、古来より住吉明神(摂津国一宮「住吉大社」、現・大阪府大阪市)・玉津島明神(「玉津島神社」、現・和歌山県和歌山市。稚日女尊を祀る。)・柿本人麻呂を「和歌三神」と称するので、「嬥歌」に因んだ祭神と言えるだろう。
蛇足2:住吉大神(通常は底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神の総称)は海上交通の守護神だが、茨城県内に「住吉神社」は少ない。茨城県神社庁傘下の神社では、水戸市に1社、桜川市に1社、石岡市に1社、結城市に2社、鹿嶋市に1社、東海村に2社となっている(ただし、石岡市の「住吉神社」の祭神は大山祇命で、通称・山王様ということから、「日吉神社」だったのが誤ったといわれている。)。
蛇足3:本文では、平将門の正室・君の御前、と書いたが、古代の通例により女性の名は伝えられていない。現・桜川市大国玉に「后神社」(「御門御墓」(2021年1月30日記事)参照)があり、将門の正室で、在地の豪族・平真樹の娘・君の御前を祀っているという伝承がある。一方、軍記物語「将門記」などをみると、将門の妻は、将門の伯父だが敵方の平良兼の娘であると読めるような書きぶりになっている(名前は不明)。良兼は当地周辺を本拠地としており、「将門記」にも「服織ノ宿(はとりのやどり)」と出てくる。当神社の北、約700mのところに「竜ヶ井城」という中世城館跡があり、これが元は良兼の居館跡だったとの伝承がある。現在も土塁・堀跡が残るというが、平地が少なく、現在の遺構は戦国時代頃のものとみられ、南方約2kmにある「真壁城」の出城として築かれたともいわれているので、真偽は不明。ただ、「竜ヶ井城」が居館ではないとしても、当地が良兼の支配地であったことは確実で、もし将門が当地の「嬥歌」に参加して知り合うとすれば、良兼の娘である方が確率は高いように思われる。
蛇足4:「羽鳥」という地名は、本来「服織」で、絹織物の里であったと思われる(「筑波山」の周辺で養蚕や機織りが行われていたことについては、「蚕影神社」(2020年11月28日記事)参照)。「羽鳥」は、「嬥歌」の「嬥」の旁を羽(は)と隹(とり)に分けたのが由来とする説もあるが、これはこじつけっぽい。
蛇足5:「筑波山」登山は、古来、羽鳥口が表参道だったが、江戸時代に「筑波山 大御堂」(2020年9月26日記事)が幕府の祈願所となってから、そちら側が表参道になったという。今でも「羽鳥古道」といって、山歩き愛好家が羽鳥側から登ることがあるようだ。


写真1:「歌姫神社」参道入口の目印になっている「二十三夜供養碑」。この左手に入ると、鳥居が見える。


写真2:立派な石鳥居


写真3:社殿のある広場入口付近にある岩。筑波山の「夫女ヶ石」に相当するものだろうか。


写真4:概ね円形のような広場の奥に社殿がある。


写真5:社殿


写真6:社殿扉の彫刻
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大増権現神社

2024-03-23 23:31:07 | 神社
大増権現神社(おおますごんげんじんじゃ)。
場所:茨城県石岡市大増。茨城県道64号線(土浦笠間線)「大増」交差点から南へ約190mで右折(西へ)、道なりに約300m。駐車場なし。
「八郷町の地名」(関肇編集、2003年)によれば、元は「加波山神社」(2021年1月2日記事)の里宮であったというが、信仰が薄れたのか、その後は寂れた。現在は、個人の所有地に有志により社殿が再建され、俗称「大摩羅権現神社」として復活した、とされる。
「加波山神社」は、式外社(国史見在社)「三枝祇神社」の論社で、加波山の山岳信仰に基づく修験の霊場だった。当神社から西へ約1.2km進んだところ(「林間学校 ことりの森」(旧「星の宮幼稚園」がある。)が登り口で、加波山山頂までの登山道があるとのこと(ただし、現在はかなり荒れている模様。)。なお、当神社の南、約1km(直線距離)のところに「加波山神社 八郷拝殿」がある(2021年1月2日記事の写真1~3)。
これ以上の情報はないが、「加波山神社」と関連がありそうなことと、神社の様子がユニークなので参拝してみた。


写真1:「大増権現神社」鳥居


写真2:社殿


写真3:狛犬代わり? のリンガ(社殿向かって左)。石造。


写真4:同上、向かって右。こちらの方がやや大きいが、コンクリート製? で、縦にヒビが入って、痛々しい。


写真5:社殿内部。神体もリンガ(陽石)のようで、インドではシバ神の象徴として信仰され、豊穣多産のシンボルとされる。


写真6:十九夜塔。女人講の供養塔で、如意輪観音が刻され、安産等の御利益があるという。さほど古いものではないようで、今も信仰が続いているのだろう。
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晴明稲荷大明神(茨城県石岡市)

2024-03-02 23:33:03 | 神社
晴明稲荷大明神(せいめいいなりだいみょうじん)。
場所:茨城県石岡市吉生723−1。石岡市道「フルーツライン」の「吉生」交差点から西へ約500mで左折(南へ)、道なりに約200m。駐車スペース有り。
当ブログで以前、平安時代の陰陽師として有名な安倍晴明(921?~1005年)の現・千葉県銚子市に残る伝説の地について4回にわたって書いた。その最初の項「晴明稲荷」(2014年6月7日記事)で、晴明に関する基礎情報を記したので、そちらを参照していただくとして、その際、現・茨城県桜川市猫島に「誕生の地」とされるところがあることも紹介した(同記事の写真3「安倍晴明誕生の地」(「晴明橋公園」))。晴明が常陸国生まれであることは、陰陽道の秘伝書「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集」(略して「簠簋内伝(ほきないでん)」)の注釈書とされる「簠簋抄」巻頭の由来に、「簠簋内伝」が晴明に伝えられるようになった事情や晴明が上洛して陰陽師となっていく経緯が書かれている。「簠簋内伝」自体が中世の偽書とされるので、「簠簋抄」の内容も事実ではなく、物語に過ぎないが、その後、現在に至るまでの超人としての晴明の伝説の元ネタとなっている。極めて省略して書くと、「霊亀3年(717年)、遣唐使として唐に渡った阿倍仲麻呂が武帝に責め殺されて帰国できず、死して赤鬼となった。同じく入唐して幽閉された吉備真備は仲麻呂の助けにより武帝の難題を退けて、多くの宝物を賜ったが、その中に、元は天竺で文殊菩薩が著したとされる「簠簋内伝」があった。帰国後、真備は、助けてくれた仲麻呂の子孫を探し、常陸国の筑波山麓、吉生または真壁の猫島に子孫が住むということを聞いた。吉生の村に至ると、6~7歳の子供が12~13人いる中に、オーラを放つ童子がいた。これが後の安倍晴明で、「簠簋内伝」を伝えられた。晴明は、「鹿島神宮」に100日参籠し、99日目に小蛇(実は竜宮の姫)を助けたことで、鳥の囀りの内容を理解できるようになり、その能力で天皇の病気を平癒させたことが陰陽師となる切っ掛けとなった。なお、晴明の母は和泉国「信太明神」(現・大阪府和泉市の式内社・和泉国三宮「聖神社」)の本体たる神狐で、猫島に3年暮らしたときに晴明を産んだ。」とされる。つまり、晴明が阿倍仲麻呂(筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫)の子孫という名族の血統に加えて、神狐を母とするという異類の能力も受け継いでいると説く。
さて、「簠簋抄」では、晴明の生誕地を猫島(現・桜川市猫島)とするが、真備が晴明に出会うのは吉生(現・石岡市吉生)としている。その吉生に現在も「本圖(もとづ)家」という旧家があり、その敷地内に稲荷社(神体は龍の髭と伝えられる。)や五角形の井戸(五角形は通称「安倍晴明判」という五芒星の紋に因む。)などがあったらしい。井戸は今は無いというが、推測するに、稲荷社の方は「晴明稲荷大明神」として一般に参拝ができるようにされたようで、訪問時にもアルコール飲料やペットボトルのお茶などが供えられていた。なお、本圖家は、同じ吉生にある天台宗「峰寺山 西光院」(前項)を創建した僧・徳一(一説に藤原仲麻呂=恵美押勝の子という。)の後裔であるとか、「西光院」の別当職を務めたなどと伝えられている。


「晴明稲荷」(2014年6月7日記事)


写真1:「晴明稲荷大明神」鳥居


写真2:拝殿


写真3:本殿


写真4:境内社
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白鳥神社(茨城県石岡市)

2024-02-17 23:33:01 | 神社
白鳥神社(しらとりじんじゃ)。
場所:茨城県石岡市小幡851。重複している県道42号線(笠間つくば線)と同150号線(月岡真壁線)の「小幡」交差点から西へ約900mで右折(北へ)して県道150号線を北へ約80m。「筑波四面薬師 薬王院」(前項参照)の西隣だが、直接つながる道はない。駐車場なし。
往古、日本武尊が東征の折、当地で功績があり、里人が仰慕して祀ったのが最初という。当地(小幡)は古代の新治郡大幡郷に属し、調(税としての布)として納められた絹織物の産地であった。当神社はその中央部に鎮祭され、「大幡明神」と尊称された。天正年間(1573~1592年)、佐竹義宣が小田氏春と合戦の折、戦勝祈願して大勝したことから、弓1張・矢20本を奉納した。兵火のため焼失するも、天正5年(1577年)、佐竹氏が再建し、田高3石2斗5升を寄進した。慶長年間、「薬王院」が別当の時、「五竜明神」と改称。元和4年(1618年)本社再建、享保3年(1718年)拝殿再建、天明2年(1782年)本社・拝殿再建。明治2年、現社名に改称し、明治15年に村社に列した。現在の祭神は日本武尊で、木花開耶姫命を配祀する。


写真1:「白鳥神社」鳥居。右側の小径の壁の向こうが「薬王院」。左側は県道150号線で、湯袋峠を越えて現・筑西市真壁町中心部に最短距離で至る。


写真2:同上、社号標


写真3:同上、社殿
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一ノ矢八坂神社(茨城県つくば市)

2024-01-06 23:33:24 | 神社
一ノ矢八坂神社(いちのややさかじんじゃ)。通称:一ノ矢の天王様。
場所:茨城県つくば市玉取2617。茨城県道55号線(土浦つくば線、通称:学園東大通り)「一ノ矢」交差点から東へ進み、突き当りを左折(北へ)、約70mで駐車場。
伝説(民話)によれば、大昔、九州からカラスの大群が現れて田畑を荒らしたので、困った村人たちが弓の名人を集め、カラスを退治したのだが、その時、最初の矢でカラスを射落とした場所を「一ノ矢」と呼ぶようになった。また、射落とされたカラスには足が六本もあり、その足でしっかりと玉を掴んでいたことから、当地の地名を「玉取(玉鳥)」というようになった、という。また、別伝では、九州から飛来したのは一羽のカラスで、それを旭友永という弓の名人が退治をすることになったが、第一、第二の矢は躱されて、第三の矢で射落とした。それぞれの矢が落ちた場所を「一ノ矢」、「二ノ矢」、「三ノ矢」と称するようになり、第一の矢が落ちた当神社は「一ノ矢の天王様」と呼ばれることになった。なお、そのカラスは3本足で、死んだカラスを埋葬したところに亡霊が現れ、再び友永が退治したところ、玉を残して消えたので、その玉は「筑波山両部権現宮」(現・「筑波山神社」)に納めたという。
社伝では、貞観年間(859~877年)、山城国愛宕郡(現・京都府東山区の「八坂神社」、当時は「祇園社」か?)から素戔嗚尊の分霊を勧請して創建。天慶年中(938~947年)、俵藤太こと藤原秀郷が深く崇敬して、弓矢を納めた。正治年中(1199~1201年)、八田知家が現・つくば市小田に小田城を築いて初代城主となると、以来、小田氏歴代の崇敬社となった。また、知家は、常陸国に流されていた万里小路(藤原)藤房(「藤原藤房卿遺跡」2023年12月23日記事参照)と仲が良かったので、当神社にも度々来遊した。永禄~天正年間(1558~1592年)の戦乱で社殿炎上、文禄年間(1593~1596年)再建。その後も時の領主により社殿は修営された。現在の本殿は宝永8年(1711年)建立のものとみられるが、延宝4年(1676年)銘の棟札も残っている。明治6年に郷社に列した。現在の祭神は、素戔嗚尊。
なお、素戔嗚尊は牛頭天王(ごずてんのう)とも呼ばれ、疫病除けの神で、例大祭を「祇園祭」というが、当神社では通称「ニンニク祭」と言われ、頒布されるニンニク守りを玄関先等に吊るしておくと良いとのことで、ニンニクを売る露店も出て、大いに賑わうという。


一ノ矢八坂神社のHP


写真1:「一ノ矢八坂神社」一の鳥居


写真2:一の鳥居を潜った左手にある「玉取一の矢古墳群」2号墳(円墳、直径約20m)


写真3:二の鳥居の前、駐車場の北東端にある境内社「岩大日社」(祭神:大日孁貴(オオヒルメノムチ)=天照大神)。なお、この塚が「玉取一の矢古墳群」1号墳(円墳、直径約10m)。ここの欅(ケヤキ)も大きいが、かつて境内に樹齢約800年と伝えられた「一ノ矢の大ケヤキ」があった(平成7年の台風で大きく損傷、枯死して平成13年に天然記念物指定解除、平成24年の集中豪雨のため倒壊して撤去されたとのこと。)。


写真4:二の鳥居と社号標


写真5:拝殿。なお、社殿は西向き。拝殿はつくば市指定文化財。


写真6:本殿(覆屋)。これほど立派な覆屋は、他ではあまり見られないだろう。覆い屋はつくば市指定文化財。


写真7:同上。本殿は茨城県指定文化財。


写真8:同上。彫刻も迫力がある。


写真9:境内社。向かって右:稲荷神社(祭神:宇迦之御魂神)、左:天満宮(祭神:菅原道真公)


写真10:南側の鳥居
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