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神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

矢筈石(茨城県日立市)

2025-06-28 23:33:10 | 名石・奇岩・怪岩

矢筈石(やはずいし)。別名:弓弦石(ゆづるいし)。
場所:茨城県日立市折笠町987-1(「折笠スポーツ広場」内、入口から入ってすぐ。)。国道6号線「折笠」交差点の南、約130mのところ(案内看板あり。)で北西へ、約270mの分岐では左(南西へ)、道なりに西へ約800m、交差点を右折(北東へ)、約50m。駐車場あり。
「矢筈石」は、八幡太郎こと源義家が奥州征伐(「後三年の役」(1083~1087年))に向かった折に、弓矢を射かけて真っ二つに割ったという伝説の石である。矢筈は矢の末端で弓の弦を受ける二股になった部分をいい、石が二つに割れている様が矢筈に似ているのが由来とされる。「折笠スポーツ広場」ができる前は、近くの田圃の中にあったという。義家が奥州征伐に向かう際に大軍を率いて常陸国を通ったとされ、各地に義家にまつわる伝説がある。類型の1つは「在地の長者から厚いもてなしを受けたのに、その長者一族を滅ぼしてしまった」という話で、現・茨城県水戸市の「一盛長者」の伝説など(「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)参照)。もう1つは義家の超人伝説ともいうもので、「太刀割石」(2020年4月4日記事)が典型だろう。「矢筈石」は後者の例だが、こうした例が現・茨城県北部に多いのは、常陸国久慈郡(現・茨城県常陸太田市)を本拠地として長く北関東を支配した佐竹氏が清和源氏の名門で(義家の弟・義光が佐竹氏の祖に当たる。)、一族の英雄譚を広めた側面もあるとみられる。
蛇足:当地の地名「折笠」(旧・折笠村)というのも、義家が軍勢を集め、当地で笠を脱がせたということに因むという。また、「折笠スポーツ広場」入口の向かい側にある「八幡宮跡」は、義家が滞在した場所であるという伝承もあるらしいが、詳細不明。なお、折笠村の鎮守は「天満宮」で、明治43年に村内の無格社八幡神社を合併したとされるので、その旧跡だろうか。


写真1:「矢筈石」。巨石だが、正面からみれば、なんてことはない石。説明板があるのだが、殆ど読めない状態。


写真2:同上


写真3:横に回ると、大きな割れ目が。


写真4:同上。割れ目が反対側まで。


写真5:「八幡宮跡」


写真6:同上、石碑。

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八幡太郎の手割石

2025-06-25 23:31:08 | 名石・奇岩・怪岩

八幡太郎の手割石(はちまんたろうのてわりいし)。
場所:茨城県日立市南高野町36-1(「(南高野)鹿島神社」の住所)。「日立南高野郵便局」の向かい側(東側)に「みなみこうや第二児童公園」があり、その南東側から2ブロック(約60m)東に進んで左折(北へ)、約40m。駐車場なし。
「八幡太郎の手割石」は、昔、南高野村字宿地内の旧街道の路傍に饅頭型の大きな石があって、道をふさいでいた。八幡太郎こと源義家が奥州征伐(「後三年の役」)に向かう折に、邪魔な石を太刀で3つに斬ったというもの。現在、2つしか残っていないが、中の石は瀬上川の用水路の落ち水受けとして使われたという。残った2つの石は、道路工事のため移動させられ、平成15年に「(南高野)鹿島神社」境内に移されたとのこと。「太刀割石」(2020年4月4日記事)と同様で、こちらは石のスケールが小さいが、それでもこれほどの石をきれいな断面で斬るという義家の超人的な伝説となっている。また、「旧街道」というのは、「金井戸」(現・日立市久慈町)から「大甕神社」(2019年11月16日記事)へ向かう道路で、現道でいえば通称「一本松通り」だろうか。「宿」という字名のほか、近くに長者屋敷伝説もあるそう(詳細不明)で、石を斬ったかどうかは別にして、義家が実際に通ったのかもしれない。

(南高野)鹿島神社。
社伝によれば、大同2年(807年)、常陸国一宮「鹿島神宮」から分霊を勧請し、茂宮川下流の後瀬鹿島に創建。寛永6年(1629年)、一村一社の鎮守として「鹿島明神」となり、元禄8年(1695年)、水戸藩第2代藩主・徳川光圀の命により一時、「大甕神社」の末社となった。明治6年、村社に列格。同12年、現社地に遷座した。現在の祭神は武甕槌命。


写真1:「鹿島神社」鳥居と社号標


写真2:「八幡太郎の手割石」。鳥居の脇にある。


写真3:同上


写真4:同上。背後から。切断面?がよくわかる。


写真5:参道。何の木かわからないが、不思議な肌をした木があった。


写真6:拝殿


写真7:本殿

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蠶養神社(茨城県日立市)

2025-06-23 23:34:15 | 神社

蠶養神社(こがいじんじゃ)。常用漢字により蚕養神社。通称:かいこ神社。
場所:茨城県日立市川尻町2-2377-1。国道6号「川尻町」交差点から東に約350m(南側)。駐車スペースあり。交通量が多く、出入りに注意。
社伝によれば、第7代・孝霊天皇5年(紀元前286年?)、蚕養(小貝)浜東沖の磯上で稚産霊命の神影が現れたため、上小山に祠を建てて祀った。稚産霊命の子神・宇気母知命の身体から蚕が生まれたということから、日本最初蚕養の祖神とした。日本武尊の東征の折、陸奥に向かう途中で船を豊浦の湊に繋ぎ、当神社に戦勝を祈願した。三日三晩の後、蝦夷の地に入ったが、戦わずに蝦夷を平定できたので、日本武尊が現社地に移し、神領80余郷を寄進したという。以上は伝説として、近世には、宇気母知命を祭神として「於岐都説神社」又は「津明神」と称し、稚産霊命を「蚕養嶺地主神」として相殿に祀っていたらしい。明治34年、現社号に改称、大正8年に稚産霊命・宇気母智命・事代主命の3柱を祭神とした。大正9年、村社に列格。
現・茨城県には養蚕の起源として「常陸国三蚕神社」と呼ばれるものがあり、「日本最初」と称する当神社、「日本一社」と称する「蚕影神社」(現・つくば市。2020年11月28日記事)、「日本養蚕始め」と称する「蠶靈神社」(現・神栖市。2022年8月27日記事)がそれである。細部は微妙に異なるが、いずれにも養蚕の技術を伝えたという「金色姫」の伝説がある。当地では、常陸国の豊浦湊(現在の小貝ヶ浜。近くの「豊浦中学校」に名を残す。) に繭の形をした丸木舟が流れ着いたのを権太夫という人物が見つけ、美しい姫(金色姫)を助けた。しかし、やがて姫は亡くなり、亡骸が繭になった。亡くなる前に養蚕の技術を伝えられていた権太夫により養蚕が広められたと伝えられている。養蚕が海を渡って伝えられたというところは共通するが、当地は外洋に面しており、金色姫が宝石のような赤い貝の首飾りを身に着けていたと伝えている。この赤い貝は小貝ヶ浜に打ち上がる「サンショウガイ」とされ、ネズミの害を避けられるとして、当神社に参拝した養蚕家が蚕棚に飾ったという。


写真1:「蠶養神社」一の鳥居。左奥に見えるのは神輿殿。


写真2:社名碑


写真3:「蚕養浜道」石碑


写真4:川尻海岸、種ヶ崎


写真5:二の鳥居、拝殿


写真6:拝殿


写真7:本殿


写真8:「茨城百景 川尻海岸」石碑


写真9:川尻海水浴場、常陸川尻漁港(南西方向)


写真10:「波切不動尊」


写真11:川尻海岸の断崖

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鹿嶋神社(茨城県日立市大久保)

2025-06-21 23:31:59 | 神社

鹿嶋神社(かしまじんじゃ)。通称:大久保鹿嶋神社。
場所:茨城県日立市大久保町2-2-11。国道6号線「大久保町二丁目」交差点から西へ約190mで鳥居前。駐車場は、参道と並行する狭い道路を北へ約140m。社殿・社務所も等高にある。
社伝によれば、大宝元年(701年)、常陸国一宮「鹿島神宮」から分霊を勧請し、住吉台鹿嶋森(現・日立市河原子町)に創建、「塩浜明神」と称した。延暦20年(801年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征討の戦勝を祈願し、大同元年(806年)に大願成就の御礼として社殿を寄進した。治承4年(1180年)、源頼朝が平家討伐を祈願した。太田城主・佐竹氏からは、東北の守護神として特に崇敬が篤かった。天正12年(1584年)、佐竹義重が流鏑馬を奉納した。大正2年、郷社に列格。日立市内には「鹿島神宮」の分霊を祀る神社が多い(8社)が、当神社が元宮であるともいう。現在の祭神は武甕槌命。
なお、拝殿前、境内南端にイチョウの巨樹がある(茨城県指定天然記念物)。樹高約20m、目通り幹囲約5.6m、推定樹齢は約600年とされる。別名「駒つなぎの銀杏」といい、上記の坂上田村麻呂の戦勝祈願の折、このイチョウの木に駒(馬)を繋いだという伝説に由来するが、もちろん推定樹齢からすれば、そこまで古くはない(初代は枯死してしまい、現在のものは2代目であるともいう。)。しかし、高台にあって、周囲に枝を伸ばしており、推定樹齢以上に大きく見える。
また、当神社では流鏑馬神事が400年以上も続いている。旧社地である河原子海岸で身を清めた後、神社参道で源義家に扮した射手が馬丁に引かれた馬の上から的を射るのだが、かつては一の鳥居前の県道に馬場があり、約300mにわたり馬を馳せながら的を射たものだったという(日立市無形民俗文化財)。


写真1:「鹿嶋神社」一の鳥居と社号標


写真2:参道の急な石段


写真3:石段脇の石碑


写真4:二の鳥居


写真5:狛犬ではなく、神使の鹿(雌)。ゆるキャラ感があって、かわいい。


写真6:拝殿


写真7:本殿


写真8:境内社「交通神社」(祭神:道長乳母神、大穴貴神)。


写真9:歌碑、境内社など


写真10:「駒つなぎの銀杏(イチョウ)」


写真11:同上

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橿原神宮(茨城県ひたちなか市)

2025-06-16 23:33:37 | 神社

橿原神宮(かしはらじんぐう)。
場所:茨城県ひたちなか市富士ノ上2-1。茨城県道6号線(水戸那珂湊線)・同108号線(那珂湊大洗線)「湊本町」交差点から北東へ約400mで左折(北西へ)、約50m(鳥居前)。駐車場は、鳥居の右手(北東)の坂道を上ったところにある。
社伝等によれば、和銅年間(708~715年)、涸沼のほとり石崎村升原(現・茨城県東茨城郡茨城町中石崎字枡原)に、左大臣・橘諸兄が、涸沼から引き揚げられた鏡をご神体として初代・神武天皇を祀ったのが始まりという。延暦10年(791年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が東夷征伐の戦勝を祈願して社殿を再建した。仁寿年間(851~854年)、神託により湊村宮山(旧・明神町)に奉遷した。延長5年(927年)、常陸大掾・平国香が桓武平氏の祖として第50代・桓武天皇と、その弟・崇道天皇(早良親王)を合祀し、この頃より「柏原大明神」と称されるようになった。寛文12年(1672年)に社殿が焼失し、同年、現在地に遷座した。享保年間(1716~1735年)に「橿原大明神」に改称したが、明治維新に伴う神社調査の際、誤って「柏原」の名で届出してしまったので、明治11年に「橿原神宮」に複称した。明治15年、県社に列格。現在の祭神は、神武天皇・桓武天皇・崇道天皇。
ということだが、この社伝には、いろいろと注釈が必要だろう。まず、橘諸兄は第30代・敏達天皇の後裔で、元は葛城王といったが、臣籍降下し橘氏の祖となった。ただし、なぜ、橘諸兄が当神社を創祀したかは不明。神武天皇は、日向国(現・宮崎県)に生まれたが、東征により大和国(現・奈良県)を平定して、「畝傍橿原宮」で初代天皇に即位した。この宮があったとされる場所に、明治23年に創建されたのが旧・官幣大社「橿原神宮」(奈良県橿原市)である。だから、同名で祭神も同じながら、当神社のほうが創建は遥かに古いということになる。次に、桓武天皇だが、こちらは現・京都市伏見区の「柏原山陵」に葬られたため、「柏原(かしわばら)天皇」とも呼ばれた。平国香が桓武平氏の祖として桓武天皇を祀ってもおかしくはないが、国香からみれば曾祖父に当たり、神として祀るのは少し早すぎる気もする(国香の時代にはまだ、その後の桓武平氏の隆盛は見通せなかったのではないだろうか。)。また、崇道天皇(早良親王)も合わせ祀った意味も不明。早良親王は桓武天皇の皇太子だったが、陰謀により幽閉され、淡路に流される途中で亡くなり、怨霊になったとされ、祟りを恐れて天皇号を追贈された人物。現・京都市左京区には、早良親王の鎮魂のために貞観年間(859~877年)に創建されたという「崇道神社」がある(祭神:早良親王)。常陸国に何か祟りがあって、当神社でも実は早良親王を主祭神として祀りたかったのだが、桓武天皇を隠れ蓑としたのではないか、という説もある。ところで、上記の社伝は、主に天明4年(1784年)の「柏原神社略縁起」などを基にしている。一方、寛文3年(1663年)の「鎮守開基帳」では、大同2年(807年)、(「柏原大明神」は)常陸国司・井手大臣兄賀が平城天皇の勅を奉じて先帝・柏原天皇を奉斎のため創建した、としている。大同年間というのは、東日本の多くの古社寺の創建年代とされるもので、あまり信用できない。また、井手大臣兄賀という人物も不明。橘諸兄は現・京都府綴喜郡井手町を本拠としたことから「井手左大臣」とも称されたというが、何か関連があるのだろうか。注釈、と言いながら、疑問ばかりだが、詳しい方がおられたら、是非ご教示をお願いしたい。さて、「橿原」と「柏原」の混乱があったようなのだが、それは「柏原」も「カシハラ」と読んでいたことによるもののようだ。「カシハラ」ならば祭神は神武天皇だろう、皇祖を祀るのだから「橿原神宮」が正しい、ということになったものと推測される。大戦以前は神宮号を称することに制限があり、当神社にも神祇院(昭和15年設置)から「神宮を神社に改めるように」との勧告(実質的には行政命令)があったという。戦後は神宮を名乗ることも自由になったこともあり、改称せずに済んだようである。
蛇足1:神武天皇自身は常陸国とは無関係と思うが、その皇子・神八井耳命(カムヤイミミ)は多(意冨)氏の祖で、その後裔の建借馬命(タケカシマ。「常陸国風土記」では建借間命と表記)が常道仲国(後の常陸国那珂郡)の初代国造になったとされる。現・茨城県水戸市の「愛宕山古墳」(2018年3月16日記事)は建借馬命の墳墓であるという伝承があり、同じく式内社(論社)「大井神社」(2019年3月30日記事)は建借馬命を祭神としている。「常陸国風土記」によれば、那賀郡と香島郡の境界を「阿多可奈湖」としていて、これが現在の涸沼だとすれば、当神社の最初の鎮座地という現・茨城町中石崎は涸沼の北側なので、古代には那賀郡に属したかもしれない。そうすると、多氏の後裔が始祖の神武天皇を祀るということも絶対ないとは言えないだろうが...。
蛇足2:「柏原神社略縁起」では、最初の鎮座地を単に「茨城郡涸沼のほとり」としていて、その頭注として「平戸村に柏原明神という地名があり、あるいはここが旧趾と考えられる。平戸村は涸沼の傍にある。ただし、仁寿年中に湊村に移転したというのは古すぎるので、違うのではないか。」(現代語訳)とも書かれている。平戸村(現・水戸市平戸)には、古代官道の「平津駅家」があったとされており、また、伝承では平国香の嫡男・平貞盛の居館跡とされる「平戸館跡」(2025年6月7日記事)がある。平戸の「柏原明神」という地名の場所は不明だが、常陸大掾氏(桓武平氏嫡流)一族の支配地だった可能性は高いと思われる。


写真1:「橿原神宮」鳥居と社号標。鳥居のところから石段を上っていく。なお、鎮座地が「富士ノ上」というのは、元は「富士権現(浅間神社)」祠があったからとされ、境内社として今も「富士神社」があるとのこと。


写真2:社殿


写真3:境内の「幸石(さちいし)」。授与品の「厄割石」を打ちつけて割ることによって、厄を祓うというもの。当神社には「厄除明神」の別称があるらしい。

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