備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム130.五流尊瀧院

2009-02-22 20:50:49 | Weblog
五流尊瀧院(ごりゅうそんりゅういん)。
場所:倉敷市林952。県道21号線(岡山児島線)の「林」交差点から1つ岡山よりの交差点を南に入る(案内看板あり。)。道路が狭いので注意。駐車場あり。
五流尊瀧院の成り立ちを簡単に概観すると、凡そ次の通りである。修験道の開祖役小角(役の行者)が謀反の疑いにより伊豆の大島に流刑になった時(699年)、五人の弟子が熊野本宮大社の神体を奉じて吉備の児島に逃れ、五院(五流五家:尊瀧院、大法院、報恩院、建徳院、伝法院)を建立した。奈良時代に入ると、天皇家の熊野信仰から天皇の崇敬を受け、天平12年(740年)には聖武天皇が児島一円を社領として寄進した。天平宝字5年(761年)には紀州熊野と同様の社殿(十二社権現宮)を整え、「新熊野」と称した。なお、倉敷市児島由加にある所謂「瑜伽権現」(由加山蓮台寺・由加神社)は、那智宮を模したものという。
承久の乱(1221年)のとき、後鳥羽上皇の第4皇子頼仁親王が児島に流され、衰微していた五流の寺院を再興した。しかし、その後は再び衰退し、尊瀧院のみが残った。明治時代に入ると、神仏分離令により尊瀧院と熊野神社に分けられた上、明治5年(1872年)には修験道が禁止され、天台宗に属したが、第2次大戦後は「修験道総本山」として独立した。
以上のことからすると、一部にはやや誇張されたところもあるかもしれないが、奈良時代から中世には、現在からは想像もつかないほど、児島における五流修験の権威が高かったということになる。それが、児島の古社とどう関わるかは、次項(日本第一熊野神社)で。


S_Minagaさんの「がらくた」置場のHPから(五流修験):http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/hoso_goryu.htm


写真上:五流尊瀧院。入ってすぐ左が庵室。正面の不動明王像は護摩堂の前にあり、その背後に本堂がある。


写真中:三重塔。熊野神社の境内にあるようにみえるが、五流尊瀧院に所属。三重塔の左手奥に本地堂がある。


写真下:熊野大権現本地堂