備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム121.石鉄山古墳

2009-01-15 22:34:15 | Weblog
古社「石高神社」(岡山市中区円山)は、もとは現社地の北の山上に鎮座していたという。それはおそらく、操山山塊の「円山」(138m)だろうと思われる。操山の遊歩道を歩き、「古墳の森ふれあい広場」を目指す。すると、かなり広い平らな場所に出る。その東端にちょっとした土盛りがあって、これが「石鉄山古墳」(操山54号墳)で、その頂上に三角点がある(写真上)。一方、広場の西端には巨岩がある(写真中)。これが磐座かどうかは何とも言えないが、なかなか立派な岩である。広場全体が、古社の旧社地として道具立てが揃っている感じである。
「石高神社」は現在、操山山塊の南麓にあるが、かつて操山の南側はすぐ海だった。今でも「湊」、「福泊」、「海吉」といった地名が残っており、開拓されたのもさほど古い時代ではない。例えば、謡曲「藤戸」にうたわれた「春の湊のゆくすえや・・・」の「春の湊」とは、この「湊」のことであるという。「福泊」は、葛西太郎兵衛という者が藩命を受けて正保4年(1647年)に浅瀬を干拓して新田開発したところとされる。「海吉」は海面村と福吉村が合併して出来た地名で、海面村は中世末期の開発、福吉村は「福泊」と同時期の新田であるという。
このようなことから、「石高神社」が元は円山山上にあり、氏子地域が円山の北側である幡多郷であるということも相当の理由がありそうである。
ところで、広場の南のすぐ下に「妙見大菩薩」と「八大竜王」の石碑がある(2009年1月14日記事に写真あり。)。つまり、(いつ頃からかは不明だが)星辰信仰と雨乞い祭祀があったということだろう。円山山頂の東、遊歩道で約1kmのところに「笠井山」(134m)がある。ここは、古社「吉備津岡辛木神社」の旧社地であるとされている。そして、「吉備津岡辛木神社」はかつて「吉備明現宮」とも呼ばれていたこととも合わせ、この2社の関連に興味が湧く(「吉備津岡辛木神社については2008年6月19日記事、「笠井山」については2008年10月17日記事)。

額田大玉さんの「古墳とかアレ(仮)」HPから(石鉄山古墳)http://www2.atpages.jp/kofuntokaare/page313.html


写真上:石鉄山古墳(いしぐろやまこふん)


写真中:円山山上の巨岩


写真下:円山中腹から北を望む。正面に龍ノ口山が見える。東西に走っている新幹線の高架より手前(南)が「幡多郷」といわれた清水、藤原、高屋などの地区。

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