備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム123.吉備の黒媛

2009-01-27 22:39:28 | Weblog
第16代天皇の仁徳天皇は、実在性が高いとされる最古の天皇である応神天皇の子。だから、仁徳天皇も実在性が高いはずだが、事績の一部が応神天皇と重複することなどから、実在性には争いがある。また、「仁徳」という漢風諡号は8世紀頃に選定されたものだが、記紀には仁政を布いた聖帝として描かれ、美男子でもあったともされるので、やや理想化されているようにも思われる。
しかし、一方では、皇后以外に多くの后がおり、好色な一面も描かれている。天皇という地位もあり、正妻のほかに多くの女性を妻にするということについて、現在の規範意識をもって非議すべきではないと思うが、それはそれとして、「黒媛伝説」というロマンチックな伝承を生むことになった。
吉備の海部直の娘、黒日売(黒媛)は容姿端麗であったために都に召され、仁徳天皇の寵愛を受けたが、皇后磐之媛の嫉妬にあって苛めを受け、吉備に帰った。仁徳天皇は、淡路島に行幸するといって吉備に至り、黒媛と再会する。しかし、いずれ別れが来る・・・といった「悲恋物語」となっている。2人が再会して仁徳天皇が詠んだのが「山縣に蒔ける青菜も吉備人と共にし摘めば楽しくもあるか」という歌で、その「山縣(やまがた)」というのがどこか、ということに諸説ある。ロマンチックな伝説を地域振興に使おうという思惑もあるようで、岡山県内のどこか、というところは一致しても、各地で名乗りを上げている。
例えば、総社市の「こうもり塚古墳」が黒媛の墓であるという伝承は、今もかなり信じられているようだ。しかし、「こうもり塚古墳」は黒媛より後世のものとされている。津山市には、「山方」という地区と、「新野山形」という地区に伝承がある。特に、「新野山形」は旧・勝北町で、その「水原古墳」が黒媛の墓(黒媛塚)とされ、黒媛に因んだ町興しに熱心である。他に、倉敷市玉島黒崎などにもある。
そのなかで、式内社「宗形神社」(赤磐市)も古くから縁の地とされている(写真は境内にある石碑)。即ち、当神社は崇神天皇の時代(紀元前1世紀?)に勧請されたとされ、本国吉備に戻った黒媛が当神社で仁徳天皇を饗応したという。これにより、上記の歌に因み、当神社は「山方の大宮」と呼ばれたとされる。当神社の所在地の元の地名は、山方村大字是里字大宮山といい、また、付近に海部ヶ市、御前畑などといった地名もあるらしい。なお、当神社の境内末社のうち、仁徳天皇が「一位神社」に、仲哀天皇と神功皇后が「香椎神社」に、武内宿禰が「武内神社」に祀られている。
黒媛がこの「山方」出身とする説もあるが、父である吉備海部直の名からして、おそらく吉井川の河口である瀬戸内海、牛窓辺りの海人族だっただろうという。そして、塩生産のほか、吉井川の水運を握って鉄などの鉱産物資源で財力を蓄えたのではないか。その縁で、このような山深いところに「宗形神社」を勧請したのではないか。吉備に戻った黒媛も、生まれ故郷の瀬戸内海ではなく、備前美作国境に近い山中に隠れ住んだのではないか・・・。前回(2009年1月25日)の項で「牛窓天神山古墳」を採り上げたのは、実はこの伏線であって、「牛窓天神社」から正面に見える「黒島」こそ黒媛の生まれ故郷ではないかという人もいる。
さて、往古、この「宗形神社」の権威は大したもので、氏子地域は、北は現・津山市小桁から南は現・岡山市牟佐まで及んだという。また、備中国一宮「吉備津神社」(岡山市)は、仁徳天皇が黒媛を慕って吉備に行幸された際に、大吉備津彦の功績を讃えるために創建されたという由緒も伝えられている。


和気商工会のHP(黒姫伝説):一番下にあります。http://www.okasci.or.jp/wakes/wakechou.html

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