彼は蛍さんの傍に歩み寄ると、
「君は絵が上手なんだね、あれはシャガだね。」
「直ぐにシャガだと分かったよ。確かに周りにはあの花が咲いてはいたけどね。」
「あの花を見なくてもあれがシャガだと分かる絵だったよ。」
彼はそう言うと、口元に少し寂しい微笑みを浮かべ、遠慮がちな態度で
「君の絵を稚拙な絵だと言って悪かったね、私が間違っていたよ。」
と、かつての自分の彼女への非礼を詫びるのでした。
『あの頃が遠い昔のような気がする。あれからもう2年が過ぎてしまったなぁ。』
もうあの時代にも帰れないんだろうかと祖父は思い、そう感じると、彼は不覚にも地面にパタリと涙を落としてしまいました。
そう、光君の祖父は息子一家と、2年近くもまた別の世界で過ごして来たのでした。
あの世界の孫の蛍は利発で可愛らしく、やはり絵が上手だった。それも今は帰れない世界になってしまったのか。
『諸行無常というけれど、本当に世の中は無常だなぁ、私の場合は身をもってそうだと感じる。』彼はひしひしと身に迫って来る寂寥感を感じるのでした。
蛍さんは、光君の祖父がパタリと地面に落とした涙を見ていました。
彼女はそれを見て、天から地面に最初に落ちる雨粒を連想しました。
しかし、それが雨ではないと彼女に分かったのは、その雨粒が彼の髪の庇の下から落ちた物だったからでした。
地面に当たってぱつっと弾けた雫が、訳知らぬ蛍さんの胸の内に妙に染みて来るのでした。
彼女は心動かされて、何かしらの真義を判定するようにじーっと光君の祖父に目を注ぐのでした。
そんな祖父と蛍さんの様子を垣間見ながら、光君はあたりの空気の変化に気付きました。
「もう始まりますよ。」
その声に、光君の祖父はそっと目頭を抑えると、彼の声の指し示すらしい方向に目をやりました。
そこには何時の間にか黒々とした人波が現れ、光君の前からずーっと境内の奥の山の山頂迄、
果てしなくまるで帯の様に繋がっているではありませんか。
その人々の群れは、1人1人が入れ代わり立ち代わり、にこやかに光君から茶封筒を受け取ると、
彼に感謝の言葉、そして彼から労いの言葉を受けて、まるで消え入るように帰って行くのです。
光君は目の前のその大軍を物ともせずに、次から次へと自分の手にした封筒を手渡していきます。
『あんなに多くの人にお金を渡しては、いくら家でも資産が尽きるのにそう時間はかからないだろう。』
それで財産を処分したと言っていたのかと祖父は合点しました。