シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

"独断と偏見" で世相・経済からコミックまで 読んで楽しい 面白い内容を目指します。 

前半性をソ連で生きたヴァイオリニスト

2021年05月23日 | 音楽関係の本を読んで
左から 『クレーメル青春譜』、グリンデンコとのデュオ曲集、マイスキー (チェロ)/バーンスタイン VPO とのブラームス二重協奏曲からのライヴ映像。
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このヴァイオリニストの自伝本は、はっきりいって読みにくいです。 クレメルは優秀な奏者だと思いますが、本を書くのには向いているとはいえないですね。

なぜかというと、回りくどい表現が多いのと、いきなり女性の名前が出てきて 彼女とはこうこうとか書き出すので、直前の文章とのつながりがさっぱり解りません。 それは他の事柄についても同様で、どこからどう段落がつながるのか、あるいは段落がバッサリ欠落しているのではないかとも想像しました。
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『クレーメル青春譜 ― 二つの世界のあいだで』(ギドン・クレーメル著 株式会社アルファベータ 2007年刊) __ 世界最高のヴァイオリニストの自伝。 東西冷戦下のソ連音楽界で何があったのか。 巨匠オイストラフとの確執、奔放な女性関係、共産党、官僚機構との駆け引き … そのすべてを赤裸々につづった衝撃の書。
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でも 強く伝わってくるのは、ソ連という監視社会での “生きにくさ” です。 ある日突然 共産党から呼び出しの葉書が届いたり、夜中に警察がドアを叩いたり、国外演奏旅行に行くにも許可が必要だったり、演奏報酬も殆ど国家が吸い上げたりと、西側社会では想像もできないような事が綴られています。

さらに 共産党幹部から私生活まで言及されたりと、まるで ソ連監視社会という 危なげなクモの糸の上をびくびく歩くような、そんな様子が見えるようです。
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クレメルの結婚歴は3回ですが、自伝の中では次から次へと新しい女性が現れますから、クレメルは “モテ男” だったんでしょうね。 もっとも 書き物をする人は誰でも自己愛が強いというか、自分を肯定的に評価しますから、悪くは描かないものです (私の独断です)。

「私生活では3度の結婚歴があり、2度目の妻はピアニストのエレーナ・バシュキロワ。彼女はクレーメルと離婚後に ピアニスト・指揮者のダニエル・バレンボイムと再婚した」(ウィキペディア) そうですから、音楽家同士はどこかで繋がってるんですね。

冒頭中央 LP ジャケにあるタチアナ・グリンデンコが最初の妻です。
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西側に亡命しても 米国とはビザの件でスンナリ行かなかったようです __

「十年前からは完全に西側で生活していた。 1977年に初めて米国を訪れた時、共産主義組織の一員だったかという質問に対して ビザ申告用紙に愚直に『はい』と記入した。 当時 それがどんな結末をもたらすか、全く分からなかった。

米大使館のコンピューターに何が保管されているかは今日まで至るまで知らない。 私に関するデータは、私を共産主義者に仕立てるように加工された。 私は FBI のニューヨーク事務所への出頭を求められた。 その後 ワシントンの国務省での会談にまで及んだ。 こうして私は、またもや官僚たちの考え方を知る機会を得た」(380~382p)

__ クレメルの音楽活動の多くが欧州 ドイツ語圏で多かったのがよく解るような記述です。 録音活動もドイツでの記録が多いのはそのためでしょう。 ある意味 不幸な事に、米ソの体制、イデオロギーの犠牲になったのは不運ですね。 それらがなければ、80~90年台 もっと伸び伸びと活躍していたかも知れません。
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クレーメル著者略歴 __ 1947年 ラトヴィアのリガに生まれる。 16歳でラトヴィア共和国コンクールで第1位を獲得。 その後 モスクワ音楽院でダヴィド・オイストラフに師事。 67年 エリーザベト王妃国際コンクール3位入賞。 69年 パガニーニ国際コンクール優勝。 70年 チャイコフスキー国際コンクール優勝。 75年にドイツで初めてのコンサート、77年にはニューヨークでも演奏。 80年 ドイツに亡命。 81年 ロッケンハウス音楽祭を自ら創設。 97年 バルト三国の若い演奏家を集め、クレメラータ・バルティカを結成。
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今日はここまでです。

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