
左から バーンスタイン/イスラエル・フィルと、カラヤン BPO とのブラームス、アーノンクール VPO とのモーツァルト。
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クレメル自伝の中で面白いのは、カラヤンとの録音・共演の経緯です __
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『クレーメル青春譜 ― 二つの世界のあいだで』(ギドン・クレーメル著 株式会社アルファベータ 2007年刊)
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「75年11月にプレヴィン指揮でロンドン・デビューを飾った折に カラヤンは出席しており、私に対する信頼を呼び覚ましたようであった。 (76年3月6日) 4時過ぎに ベルリン・フィルハーモニーのステージに立っていた。 カラヤンは友好的な態度だったが、私が何か演奏して見せるのは好まなかった。 『君の演奏振りはすでに知っているーー万事うまく行くよ』
ステージに立つ少し前 修正の材料にするためにリハも一緒に録音するといわれた。 いつの間にか会場は静まり返り、録音が始まった。 リハの正体が実際はレコードの吹き込みだった。 後に発売されたものはリハを録音したものだとの印象を殆ど与えなかった。
我々は時折中断したが、全てが追加の作業なしに進んだ。 BPO は音量と色彩豊かにブラームスの響きを演奏し、制作プロセス・試聴・バランス調整をその場で高度にやって見せる術に間違いなく熟達していた。 プロデューサーのグロッツの専門知識に裏打ちされた助言、中でもカラヤンが全体を指揮した卓越性は、高度な芸術に日常慣れ親しんでいる様子を示していた」(211~212p)
__ と、カラヤン流のリハなし抜き打ち録音の様子が伝わってきます。 このやり方はドミンゴとの『蝶々夫人』を録音した時と同じ印象ですが、クレメルは面食らったでしょうね。 クレメルの心情はどうだったかというと …
「私だけが不意打ちを喰らって戸惑っていた。 演奏中にどれほどの痙攣や呼吸困難に襲われたか、筆舌に尽くしがたい。 カラヤンは機嫌がよく、注意深く耳を傾け、何らかの影響を与えようとした。 彼は若い芸術家に譲歩させる点を除いて、非常に公平に振る舞った。 萎縮させるのは、彼の発言よりも その存在感だった。
私は単純に騙され、(翌日の) 日曜日のコンサートが録音されて、今のは修正用の材料にすぎないと思い込まされたのだった。
試聴を含めて このセッションは全体で2時間掛かった。 翌朝 1~1時間半ほどが追加された。 カデンツァはオケが去った後に、追加で制作された __ 理想的な音楽演奏とは程遠い。
レコードは出来上がった。 私は謝礼として千マルクを一時払いで受け取り、ライセンス他の 1.9万マルクはモスクワに支払われた。
振り返ってみると 当時は全力を尽くそうとしたにしても、大した感慨もなく この出来事が思い出される。 緊張とやらねばならない状況のために、音楽の自由な流れは殆ど許されなかった。 受け取った後は2度と聴かなかったこのレコードは、必然的に “こわばった感じ” がする。
これに対し 日曜日の演奏会はずっと打ち解けた雰囲気になり、自由闊達で音楽的にも手に汗握るようになった」(212~214p)
__ とクレメルが書いているように、私もこの EMI 録音を聴いて 面白い演奏だとは感じませんでした。 そうした状況というのは感じ取れるものですね (ですから この盤はオススメではありません)。
ちなみに 日曜日の演奏会後半はチャイコの5番でした。 カラヤンからお座敷が掛かったのはこれを含め2回きりでした。 “秘蔵っこ” が現れたからです。 マエストロのヴァイオリニストへの関心は、クレメルを素通りして “秘蔵っこ” に向かってしまいました。
続く