シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

"独断と偏見" で世相・経済からコミックまで 読んで楽しい 面白い内容を目指します。 

カラヤンのアシスタントたち?

2016年11月01日 | 音楽界よもやま話
写真は上左から小澤 クリップス デュトワ ティーレマン。 下左から高関 山下 テイト。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
20世紀の大指揮者たちは殆ど物故してしまい、今は録音にその片鱗が残っていますが、あのカラヤンには助手 (アシスタント 練習指揮者 副指揮者) が大勢存在していました。 私が知っているだけで 小澤 征爾、シャルル・デュトワ、クリスティアン・ティーレマン、高関 健、山下 一史 (かずふみ)、ジェフリー・テイトなどです (クリップスは違います)。

60年前後のカラヤンは、ある意味 絶頂期で、ベルリン・フィル、ウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座、英フィルハーモニア管などを抱えていましたから、細かい練習の積み上げなどは本人が出来るはずもなく、下稽古を多くの助手が支えていたことは容易に想像できます。

小澤は60年代のザルツブルク音楽祭での下稽古でウィーン・フィルを指揮し、本番はカラヤンが振ったそうです。 66年 カラヤンの推薦でザルツブルク音楽祭で『後宮からの誘拐』本番を小澤が振って好評を博し、レコード会社から録音を持ちかけられたのを なぜか小澤は断り、録音はヨーゼフ・クリップス (Josef Krips 1902〜74) が指揮し その録音が EMI に残っています。 この辺の経緯は不明です。 クリップスの録音でハイライトはこれでしょう。

小澤は、その前の61〜62年にニューヨーク・フィルの副指揮者を勤めていますから、バーンスタインのアシスタントも経験しています。 ボストン響の常任 ミュンシュにも付いて、ボストン郊外のタングルウッド音楽祭でも教えを受けています。

話しは少し反れますが 小澤は、ピアニストのゼルキンやチェリストのロストロにも気に入られてますから、巨匠たちと仲良くなるのがうまかったようですね (週刊誌的ないいかたでは “ジジ殺し” とも?)。 それも能力の1つかも知れません。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
ウィキペディアから __ シャルル・デュトワ (Charles Dutoit 1936〜) は、スイス出身の指揮者。 ローザンヌとジュネーヴの音楽院で指揮、ヴァイオリン、ヴィオラ、打楽器、作曲を学ぶ。 ルツェルン音楽祭ではオーケストラの奏者としてカラヤンと共演し影響を受けている。

 ジェフリー・テイト (Jeffrey Tate CBE, 1943〜) は、イギリスの指揮者。 1970年に医療の道を断念して、ロンドン・オペラ・センターに学ぶ。 その後はもっぱら現場で地道な経験を積み重ね、ショルティ、ブーレーズ、カラヤン、レヴァイン、ケンペ、クライバー、デイヴィスらの助手を務めつつ、それぞれから実践的な助言を受ける。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
デュトワも音楽誌で カラヤンの副指揮者をしていたと読んだ記憶があるのですが、上記ウィキでは 奏者として接したことがあるとなっていますから、副指揮者ではなかった? デュトワは日本の NHK 響で常任をしていましたから、その紹介記事か何かで情報が変わって伝えられたのかも知れません。

いずれにしろ カラヤンと接点はあったのでしょう。 インタビューか何かではっきりいわなかったのかも __ よくあることで、具体的にカラヤンから この曲のここでこう表現するのがいいとか 教えを受けたいったら、”何だ お前の指揮はカラヤンの解釈通りかよ”、などといわれかねませんからね。

テイト、高関とカラヤンとの接点は読んだ記憶がありません。 ですから 多くの助手がいたことは間違いないでしょう。 それらの助手も活躍の場 (=就職先) が見つかると、カラヤンの元を去っていくのですから。 最近はデュトワやテイトの活躍は聞かなくなりました。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
ウィキペディアから __ クリスティアン・ティーレマン (Christian Thielemann 1959〜) は、ドイツ・ベルリン出身の指揮者。 5歳でピアノ、7歳でヴィオラを始め、後にピアノをベルリン音楽大学学長のヘルムート・ロロフに師事、カラヤン財団のオーケストラ・アカデミーに入った後はベルリン・フィルの中で当時の首席ヴィオラ奏者ジュスト・カッポーネからヴィオラとヴァイオリンを学んだ。 1978年 19歳でベルリン・ドイツ・オペラのコレペティートアに採用された。 カラヤンとの交流も深まり、80年には カラヤンが弾き振りするブランデンブルク協奏曲のチェンバリストとして “ベルリン・フィル デビュー” も飾っている。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
ティーレマンはウィーン・フィルとの録音が多かったので、ウィーン国立歌劇場の指揮者に就くのではと予想していましたが、外れました。 今はミュンヘンで指揮しているようです。

山下一史は、カラヤンの助手を勤めていた折り 急遽 ベルリン・フィルの指揮台に上がり、見事に第九を振って好評を博したことで有名ですね。 下記の記事1に詳細が載っています (が、あまり読み易い文章ではありません。 会話録音から文章を起こしたのでしょうが、それが いい起こし方ではなかったのだろうと想像します)。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
ウィキペディアから __ 山下一史は、1985年からカラヤンのアシスタントを務める (カラヤンの逝去まで)。 1986年開催のニコライ・マルコ国際指揮者コンクール (デンマーク) で優勝。 この年に開かれたベルリン・フィルの公演で、急病のカラヤンの代役としてジーンズ姿のままベートーヴェン「第九」を指揮、脚光を浴びる。

 『くらこれ! おしゃべり音楽マガジン』〜「055 カラヤンの影武者、そして代役に 山下一史③」(http://fm-osaka.com/kurakore/?page_id=1906) __ ※追加1へ
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
以上


※追加1_ 夢はもたなければ叶いません。 夢をもっていても、努力しなければ叶わないでしょう … (ディズニー「星に願いを」から)。 な、なんと山下少年は大志を抱き、指揮者になる夢を実現させるため中学2年生で上京したのです。 住まいは、憧れ … というか、絶対合格しなければ夢叶わぬ桐朋学園 … のそばの、トイレも共同で風呂もないようなボロアパート。 そこから普通の中学に通った山下少年。「1年間 チェロも弾いたし、勉強もしたし、僕を強くしてくれました! 楽しかった! 友達一杯出来たし … 今でも付き合いがあるんですヨ」。 栄えある “桐朋” に合格! よかった~‼

桐朋の大学時代に民音指揮者コンクールに入賞した山下さんは “このままいけるゾ~ (=プロの指揮者)” と甘い考えが … とんでもないことに。 ベルリンに留学中、再度 民音指揮者コンクールに挑戦! “今度こそ1等を取るぞ‼” … と思いきや2次で落ちた→挫折→逃げるようにベルリンに戻る→奈落。

そこにやって来た先輩指揮者 高関 健さん (カラヤン指揮者コンクール・ジャパンで優勝後 カラヤンのアシスタント) が、“僕は広響 (広島交響楽団) の音楽監督に就任するので日本に帰るから、カラヤンのアシスタントを君!やってみない⁉” もうプロの指揮者になれないんじゃないか、このままヨーロッパで腐るんじゃないかと思っていた山下さんに “蜘蛛の糸、それも金色に輝く蜘蛛の糸” が絡んできた … 人生、きりっきりっのところで最高の出会いがあったのです‼

“急病のカラヤンの代役としてジーンズ姿のまま第九を指揮” このジーンズ姿が信じられなくて聞いてみた …
「ジーンズっていっても、ブルーの (かつてジェームス・ディーンがはいて世界の若者を虜にした、ヨッサンも愛用していた) ジーンズじゃありません。 黒色。 何で黒かというと カラヤンのアシスタントとして VTR 撮りに付き合って、カメラリハーサルで (カラヤンに代わって) 指揮する、結局 “影武者” ですわ。 撮影中に上から (カラヤンがベルリン・フィルを指揮した演奏が) 降ってくる … それに合わせて学生オケを僕が (カラヤン役として) 指揮する訳です。 (その指揮振りをカラヤンが見ている) そんなカラヤンはいつも黒ずくめ … その同じ格好で一週間着たきり雀だった (匂いそうな⁉)、そんな山下さんにとんでもない話が突如舞い込んだ。

「カラヤン (ベートーヴェン第九) 演奏会に僕はお客として、この格好 (黒ジーンズ・黒セーター) で行ったら、(本番30分前に) ステージマネージャーが血相変えて飛んできて “すぐ電話に出ろ‼” そうすると、カラヤンの専属マネージャーが “今からいうことに君はイエスかノーしかいってはいけない。 (なんだろう??) カラヤンは病気だ。 今日の演奏会は振ることはできない。 ドクターストップで。 カラヤンはヤマシタにやらせろといってるが、君はイエスかノーか!??” そりゃ アシスタントやるからには全部暗譜して勉強してますから、ノーといえなかったです … 後から震えましたけど」といったとたんに 楽屋に閉じ込められた山下さん。

「感動的だったのは、ステージマネージャーの態度がガラッと変わるわけですよ。 あれってプロですネ。 それまで僕は学生だから、いつものアシスタントやってる “坊や”。 それが急に “指揮台はどうしますか? 後ろのバー (背もたれ) はどうしますか?” 本当に真顔で、指揮者として遇してくれたんです。 それがどれだけ自信を与えられたか! 一人前のマエストロとして扱ってくれたんです」

果たして リハーサルなしの第九 … 万雷の拍手の嵐‼ 第九のスピリッツ … 苦悩から歓喜が湧きあがった … ウソのようなホンマの話でした。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

以上

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。