シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

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中国の妖婦 西太后 (2) 〜 その独裁ぶり

2021年06月14日 | 歴史をひも解いて
左は1984年の香港映画『西太后』(https://www.youtube.com/watch?v=kks5UjvCtpc) から。 手足を切断され、瓶に入れられた女 (咸豊帝の側室 麗妃) のシーン。 中央は東太后。 奕訢 (えききん)。
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中国の三大悪女として、”漢の呂后” “唐の則天武后” と供に名前が挙げられる「清の西太后 (せいたいこう 1835~1908)」は、清朝末期の権力者です。

なぜ西太后が三大悪女の1人となるのでしょうか? それは、以下のような2つの残酷な話しからです __『西太后』という映画の中で、夫であった咸豊帝 (かんぽうてい) が愛したといわれる麗妃の手足を切断し、瓶に入れて生かしておいたという身の毛もよだつシーンがある。 彼女は、悶え苦しむ麗妃の姿を見て満足したかったのである。

また 気性の激しい彼女は、正室を毒殺し、光諸帝 (こうしょてい) の側室を、多くの人間の見守る中、生きたまま井戸に投げ落として殺したともいわれているのである。 西太后が、呂后や則天武后とともに、中国史上稀代の三大悪女ともいわれている所以がここにある」(『不思議館』__ 女王にまつわる奇談・西太后 http://fusigi.jp/fusigi_4/works/works_13_k.html から ※1)

この “瓶に入れられた女の話し” は史実ではありません。 その方が物語や映画として面白いから使われているだけです。 麗妃は普通に暮らして、自然に亡くなっています。

しかし 西太后は全くの “清廉潔白の美しい” 権力者でもありません。 たとえば __

1861年 夫の咸豊帝が死ぬと、西太后が生んだ載淳 (さいじゅん) が次期皇帝候補となります。 当時の載淳は6歳ですから 政治の実権をめぐり、西太后と後見となった粛順 (しゅくじゅん) などの大臣ら8人と激しく争います。

クーデターを発動した西太后は、粛順を斬首し、2人の大臣に自害を命じ、他5人を免職とし、権力を掌握しました。
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粛順は、仰向けに牛車に乗せられ刑場に運ばれたという。 民衆は処刑の見物に集まって来た。 子供たちは歓声をあげて、どろや石を投げたので、粛順の顔は判別出来ないほど酷い人相になってしまった。 彼は斬首にあたり、ひざまずくことをしなかったので、死刑執行人は、粛順の足を鉄の棒で叩き折って処刑したとある (※1から)。
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その後 載淳は同治帝 (どうちてい) として即位し、当初は東太后と西太后が同治帝の後見として垂簾聴政 (すいれんちょうせい) を行います __ 垂簾聴政とは、皇帝が幼い場合、皇后・皇太后のような女性が代わって摂政政治を行うことです。 中国で 女性である皇太后は、男性である朝臣と直接対面するのを避けるため、皇帝の玉座の後ろに御簾を垂らし、その中に座って政務を行ったことより、このように呼ばれました。
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1875年 同治帝は19歳で死去し、死因は天然痘とも お忍びで遊郭に出向いた際に罹患した梅毒という説がある。 この時も 西太后は、そりの合わない皇后 (後に幽閉され死亡した) と皇帝を無理矢理 離間する等、依然として権力を握っていた。 同治帝は子供が無かったため、西太后は次の皇帝に 血縁の近い妹の子 (3歳) を光緒帝 (こうしょてい) として即位させた。 西太后は垂簾聴政を行い、権力の中枢に居続けた (ウィキから)。
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1875~79年 連年の天候不順に因り大飢饉が発生しましたが、西太后は何等の救済も実施せず、 1000万人以上の餓死者を出す 清朝の歴史上最悪の飢饉を引き起こしました。

1881年 45歳の東太后が突然死去します。 公式発表は病死です。 民間はもとより清朝高官にも公然と懐疑を表した者は多かったのですが、脳卒中と考えられています。

1884年 咸豊帝の弟で実力者の奕訢 (えききん 冒頭右写真) を失脚させ、東太后の死去と奕訢の失脚により、西太后は絶対的な地位を確立しました。

続く。

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