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シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

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“英雄児” だったか 継之助3

2015年03月09日 | 歴史をひも解いて
写真は Cat & Dog Fight。
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小千谷談判で河井が一本気な若造の岩村に一蹴されたとあっては、やるせなさが残ります。 以下に溜飲が下がる部分を紹介します。
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「継之助は小千谷を去った。__官軍の大きな失敗だった。 とは、後年、新政府部内で一致した反省であった。 たれが継之助を去らせたか。『岩村だ』と、後年、長州人 品川弥二郎はいう。『そもそも河井の相手に岩村のような小僧を出したのが間違いの元だ』と、品川は小僧呼ばわりしている」(『峠』から抜粋)
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北越戦争が終わった後で、新政府はようやく河井の人物を評価したようです。 長岡藩と戦わなかったら、双方ともムダな戦死者を出すこともなかったでしょう。 河井は、百年後の歴史に判断をまかせて玉砕しようとし、互いの意地が戦いを避けようとする動きを封じてしまいました。
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「柏崎にいた官軍総指揮官の山県 (やまがた) は、河井が小千谷から去ったと聞いたとき、『敵はまず榎峠を攻めるだろう』とみた。 山県は、長州奇兵隊から二個小隊を抜き、自ら率いて小千谷に向かった。

小千谷に近づいたのは朝7時頃であったが、山県の見込み通り 榎峠の方角にあたって激しい銃声を聞いた。 小千谷本営に入ったとき、山県の驚いたことは、本営ののんきさであった。 大将の軍監 岩村は、幹部ともども武装もせずに座敷で朝食をとっていた。 本膳つきの贅沢なもので、しかも土地の娘に給仕させ、まるで料亭の座敷のような悠長さであった。

 山県は泥わらじのままで座敷に闖入 (ちんにゅう) し、『馬鹿者っ』と膳部を蹴上げた。 戦術眼のない岩村は、榎峠の銃声は、峠の守備兵と会津あたりの斥候兵との小競り合い程度にしか思ってなかったのである」(『峠』から抜粋)
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司馬 遼太郎は、1968年『峠』の新聞連載前の63年に別冊文芸春秋に『英雄児』で既に河井 継之助を題材に数十ページ書いています。 そこには、新政府は明治2年 河井の家名を断絶し、16年再興を許可とあります。 また 長岡市内の河井の墓石に鞭を加えに来る者が耐えなかった__多くが北越戦争で死んだ者の遺族だったとも。

『英雄児』で河井は、藩内のガトリング砲などの新式武器群を背景に 揺るぎない自信で新政府軍に対峙する様子が描かれ、『峠』とは異なった印象もあります。 どちらも事実だったのでしょう。 北越戦争を題材とした歴史ドラマでは、この “ガトリング砲” が必ず登場しますが、武器に頼る外交だけでは 主に話し合いによる外交交渉は成立し得ないでしょう。

約80年後の1941年 (長岡に生まれた) 山本 五十六率いる連合艦隊空母から発進した海軍航空機と潜航艇が真珠湾を奇襲攻撃しました。 奇襲作戦は成功し、米太平洋艦隊の戦力低下により、日本軍は西太平洋海域の制海権を確保し、南方作戦を成功裏に終えましたが … 45年 敗戦。

今は長岡市内に2006年に開館した “河井 継之助 記念館” があります。 河井が死去した福島県只見町にも “河井 継之助 記念館” があります。 多くの長岡市民が誇る郷土の英雄になるには、没後140年余りもの長い時間が必要だったのかも知れません。
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会津藩も戊辰戦争で悲哀をなめ、白虎隊の悲劇を生んでいます。 昔 現役時代 20年ほど前に、私がいた部署に新卒女性が2名配属されてきました。 1人が会津出身でした。 飲み会などでだったと記憶しますが、誰かが彼女に訊きました __「やっぱり 会津の人ってさー、明治維新のときに 長州などの人にやられちゃったから、今でも長州 山口県の人などを恨んでいたりするの?」

返事は __「いいえ もう、そんな古いことをいつまでも恨んでいたりしませんよ」「そうかー そりゃそうだよね …」というやりとりでしたが、どうでしょう。 会津人の心の奥底にはその火が “おき火” のようにいつまでもくすぶっているのかも知れません。 彼女は自分から冗談をいうタイプではない典型的な会津人でした __ 表面的な会話ではなかなか本心は分かりません。

昔 現役時代に都内営業所に勤務していた鹿児島出身の同僚が退社後、奥さんの出身の仙台へ行って職を得たそうですが、暫くして自殺してしまったそうです __ 仕事仲間に馴染めないで苦労しているらしいと噂で聞いていたのですが __ 恐らく 言葉遣いが違い過ぎて、雑談などの会話が難しかったのではないかと想像しています。

私自身 高校時代に新潟県新津市 (新潟市の南にある小都市) から会津高校へ転校、2年間過ごしましたが、やっぱり言葉遣いが違って (自殺するほどではありませんが) 友人はできませんでした。 イジメはなかったのですが、進学校で あまり楽しい想い出は残ってないですね。
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教室は班ごとに交代で掃除しますが、私が所属する班が担当していたときのことです。 掃除も終わりかかったとき、ある班員 (同級生) の友人がやってきて2人で立ち話を長々と始めるのです。 当然 その同級生は掃除を中断して話します。 そのうち 他の班員 (同級生) たちも掃除をほったらかして話しだす始末です。

私も1人で掃除を続けるのがバカらしくなり、同級生たちを残してさっさと帰宅してしまいました。 新参者の私が、”おーい いい加減 話しを止めて掃除を終わらせよう” といえる雰囲気ではなかったからです。 翌朝 登校すると、バケツの水がそのままだったので、バケツの水だけは捨てて片付けておきましたが、誰も何もいいません __ 後味の悪い出来事でした。 その後はそういうことはありませんでした。
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盆地で特有のクセ 人情があり、よそ者を容易に受け付けない、いってみれば 融通の利かないカタクナさがあると感じましたね。 もちろん 仲間内で冗談をいう同級生も中にはいました。 会津高校はずうっと男子校でしたが、最近は共学となり 少しずつ校風も変わってきているのかも知れません。

会津高校内には “剣舞委員会” というものがあって、催し物があると委員が袴姿で剣舞を舞う習慣があります。 白虎隊戦士を偲ぶもので、それが戊辰戦争で負けたという喪失感を表しているらしかったですね。
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ウィキペディアから __ 会津高校 学而会 (生徒会) の特徴的な活動として「剣舞委員会」がある。 これは戊辰戦争で若くして命を落とした白虎隊の霊を慰める伝統的な剣舞を継承しており、春・秋に飯盛山の墓前祭での奉納を行う。
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以上

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