シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

"独断と偏見" で世相・経済からコミックまで 読んで楽しい 面白い内容を目指します。 

母と叔母の寂しい思い出

2023年02月08日 | 分からな~い人生
左は生前の母の食事風景。 右はしがみつく子猫・大猫 (まいどなニュースから)。
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故郷の菩提寺 (ぼだいじ) から 令和5年度護持会費 (墓守料) と母の7回忌の案内が届きました。 そうか もう母が亡くなって6年経ったのか、と気付かされました (7回忌と13回忌は6年目と12年目)。 母の法事は弟が仕切るので (父のは私が分担)、早速 メールで伝えました。
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母が存命だった頃 帰省して私がダイニングの椅子に腰掛けていると、後ろ向きで台所仕事をしながら 母がいきなり、「1年も一緒にいたんだよ!」と大声でいう。 ははぁ また “ビデオテープ” が母の頭の中で回ってるなと合点がいく。 何回も聞いた … 父の妹さんが新婚家庭の家に1年も居候 (いそうろう) していたという話しです。

両親が結婚すると 父の妹がその家庭にやってきた話しで、「ある日 妹さんが家の中にいるんだよ。 “お世話になります” と挨拶もしないで、変じゃない? 普通だったら 何か挨拶するよね?」と母がいうのです。

「父は何か事前にいったの?」「それが何もないんだよ。 変わった子で、挨拶もちゃんとできない妹でね …」
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『突然わが家に転がり込んだ „無職の義兄“ に対する39歳女性の困惑と怒り』(1月29日 現代ビジネス ※1) __ 広くはない やっと買った中古マンションの一部屋を義兄が占拠して …
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上記記事を読んで叔母を連想しました。 両親が結婚したのは、戦後 数年経った頃です。 樺太で事業をしていた祖父が引き上げてきて地元に帰り、その頃かその前に祖母が亡くなり、3人兄弟の次男だった父は最初 関西の方で勤めていたのですが、肺結核を患って地元に戻ってきて就職したなど、家族や世の中が右往左往していた時期です。

祖父は故郷でまた事業を始めたのですが、住んでいた家の記憶が私にはないので、家を売って事業の資金にしたのか、何かのカタに取られたのかは不明です。 丁度その頃 高校を卒業して電話局に交換手として就職した父の妹が、住む居場所がなかったのか 兄の家庭に1年 転がり込んだのです。 皆 裕福でなく 間借りかアパート暮らしでした。

1年後 住まいが見つかったらしく、兄の家庭 つまり私の父の家庭から叔母は出ていったのです。 恐らく その頃 私が生まれて家庭が手狭になったので、出て行くよう父から促されたのかもしれません。
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この父の妹 叔母は、生涯 独身を通しました。 結婚したい気は普通にあったらしく、「結婚 し た い のぉ~」と母にもシミジミといった事があるそうです。

「学校の教師と結婚するとかの縁談話しがあったんじゃない?」と訊くと、「ああ あれは教師だとか、何とかでもと自分でいってただけでね。 特に具体的な話しがあったってわけじゃないんだよ。 出っ歯で器量もよくなくて、気が利かないから、結婚しようという相手もできないんだよ。 街中の電話局に勤めているんだから、帰りに何か買ってきますか?と聞いてきた事すらないんだよ」と母は叔母をクソミソにいいます。

そうした話しを小学生だった私と弟が聞いていたものですから、ある時 叔母が来宅した際に 弟が „素直に“ こういったのを覚えています __「叔母ちゃん 出っ歯だね~」と (!?)。 当然 叔母は烈火の如く 怒りました __「まあ この子は何て事いうの! そんな事いわなくたって いいだろっ!」

小さい子は親たちの話しを聞いていて、そのまま口にしてしまいますから。 私も別件で他人に向かってそのまま話してしまい、父に赤っ恥を掛かせてしまった記憶があります。 今 思い出しても冷や汗が出ます。 でも こういう経験は誰にもありますよね。
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また 私が中学生の時 20も年上の、30台半ばだった叔母が来宅して父と何か話していました。 私は2人の話しには興味がなかったので、(漫画) 本か何かを近くで読んでいました。

すると どうやら父が叔母に、“いつまでも独身を続けずに いい人を見つけて早く結婚しろ、でないと このままお婆さんになってしまうぞ“ とか焚き付けたらしく、急に叔母が私に笑顔でいうのです __「年取ったら ○○さんに面倒見てもらおうかなぁ~♪」

私はびっくりして、何もいえず 叔母をみつめたままでした。 父もただ笑っているだけです。 この “他人にオンブに抱っこ性格“ は生涯変わらず、父も手を焼いてました。
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50前後で早期退職した叔母は、年金暮らしに入り ピアノを習ったり、ダンスに凝って日々を過ごしていました。 私が20台半ばの頃 叔母の家を訪ねると、部屋にピアノが鎮座しているのですが、叔母がピアノを練習したり弾いてるのを見た記憶がありません。

「叔母のピアノの腕前は上手かったの?」と父に訊くと、「下手なのさ … ピアノの習い事で男の人のそばに座ったり、ダンスで男と一緒に踊ったりしたいだけなんだよ」と即座にいってましたが。 浮いた話しの1つもない 寂しい年金1人暮らしが想像できます。

叔母が70歳前後になって 体が思うように動かなくなっても、80台になった父も高齢だからとなぜか面倒をみようとせず、それを私がちょっと非難すると「あれは依頼心の強い子でね、可哀想だからと 世話しようとする人に頼りっきりになるので、みんな逃げていったよ。 私の所にも来たいといっていたけど、妻が猛反対してね …」と血を分けた兄らしくない話しを垂れていました。

私も何かお手伝いできればと思い、20台の時に何度か訪問しましたが、父の話しを裏付けるような展開ばかりで __「伊豆の方はあったかくて老後は暮らし易いそうだねぇ …」「そうだね 自分で探してみたら」と応えると なぜか目を伏せて黙ってしまうのです (!?)。 言外に「あなた 丸ごと世話してよ」という “オンブに抱っこの性格“ が伝わってきます。 本人が殆どを動いて、出来ない部分を支援してというなら理解できますが …

結局 叔母は世話を見ていた民生委員に隣の市の老人ホームを紹介されて、そこで70台半ばで亡くなりました。 今から思い返すと ずうっと寂しく あまり楽しそうな話しや浮いた話しのない人生だったんじゃないかと推理します。

今日はここまでです。

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