*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之
「第5章 プルトニウム輸送船「あかつき丸」の日米密約」を数回に分け紹介します。3回目の紹介
原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-
1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた
高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。
事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、
一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。
死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。
そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、
あまりにも生々しく記録されていた。
(P3「まえがき」から)
「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」
2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。
「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時)が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ムラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。
----------------
**『原子力ムラの陰謀』著書 「第5章 プルトニウム輸送船「あかつき丸」の日米密約」 の紹介
前回の話:プルトニウム輸送船「あかつき丸」の日米密約 ※2回目の紹介
当時、動燃総務部文書課長だった西村氏の妻・トシ子さんが振り返る。
「夫は、あかつき丸については『大きな重要な仕事がある』としか言わず、特に口が固かったですね。あの時期、親戚と一緒に家族で伊豆へ温泉旅行に行ったことがあったんですが、夫は動燃にいつでも連絡がつくようにと旅館の連絡先を伝えていたようです。到着した翌朝、さっそく動燃から旅館に電話がかかってきて、すぐに出て行ってしまった。それまで、ものすごく楽しそうにしていたのに、置いていかれた私たちも興ざめですよ。何の用事かは教えてくれませんでしたが、後に『プルトニウム輸送のことは国家機密だから家族にも何も言えなかった』と教えてくれました」
「あかつき丸」の入港当時、反対運動を行った原子力資料情報室の西尾漠共同代表が振り返る。
「われわれは核ジャックを防ぐためにも情報はフルオープンにして衆人環境の下で輸送すべきだと訴えていましたが、まったく聞き入れられなかった。彼らが本当に核ジャックを恐れていたのかは疑わしい。むしろ、いちばん恐れていたのは『あかつき丸』をきっかけに原発反対運動が盛り上がり、全国に波及していくことだったのではないでしょうか」
「西村ファイル」を見ていくと、こうした見方もあながち間違っていないようだ。
「厳秘」と書かれた<情報公開問題に係わる事業団・科技庁両局の基本的スタンス>という書類は、科技庁と動燃の幹部が「あかつき丸」の出航直前の92年10月29日に打ち合わせを行った際のメモだ。そこには、動燃の石渡鷹雄理事長(2013年3月に死去)、科技庁の原子力局長、原子力安全局長という原子力行政のトップたちの、こんな”密談”の記録が残されていた。
情報公開についての科技庁の考え方をたずねる動燃理事長に、科技庁の両幹部は次のように答えた。
<情報管理に関わる国際的な法根拠はない>(原子力安全局長)
<国際的取決めはないが、情報管理については、あくまで核防護の名を借りて実施しているもの>(原子力局長)
つまり、頑なに秘匿を貫いた「情報統制」に何の根拠もないことを国の担当官庁の幹部自らが認めているのだ。彼らの思考では、原子力基本法で定められた「公開の原則」など一顧だにされていないようだ。しかも、原子力局長はこんな発言もしていた。
<情報公開に当たっては、国民的常識の範囲を逸脱しないことが肝要>
詳しくは後述するが、彼らの情報統制は「常識を逸脱していない」というレベルではない。こうした発言を聞いた理事長は、次のように応じている。
<まずは、国会対応よりマスコミ対応優先>(理事長)
理事長が関心を持っていたのは、事故防止やテロリストからの防護などといった「核防護」ではなく、国会とマスコミという「コップの中の嵐」への対応だったのである。
以下、これまでベールに包まれてきたプルトニウム輸送船の内情を詳しく見ていく。
※続き「プルトニウム輸送船「あかつき丸」の日米密約 」は、9/10 19:00 紹介予定です。
![]() |
![](http://www18.a8.net/0.gif?a8mat=2BW2PE+CWE4MQ+249K+BWGDT)