哲学的ゾンビの主観と客観
ものごとを見る意識が主観なのか客観なのかという問題が立ち上がった場合に出される答えは、結局のところすべては主観のなせる業である、ということになろう。では何か判断を下そうとするときに客観的であろう、とすることは無益なことであろうか。
客観というものが主観から逃れられないものだとする根拠は、そのどちらもが人の 意識 というものに始点を置いているからである。意識はどのように生成するのか、という問いには現在のところはっきりと断定することはできないと考えられるが、今までの知見からすると脳活動と大きな関係を持ったものであるということははっきりといえる。しかしこのことは人に意識というものが必須であるということを現すものではない。
意識がない人間というものもありえるのではないか。たとえばそれは、身体的機能はおおよそ人間的機能をすべて果たすが意識がない人、こういう人を「哲学的ゾンビ」と呼ぶそうだ。生きて生活はしているが意識がない。意識がないと表現するとunconsciousということが浮かぶかもしれないので、意識がないとは ココロがない というように言い換えたほうがよいかもしれない。
意識の役割にはさまざまなものがあるが、今回参考にした茂木健一郎 「個別と普遍」ちくま連載 2005NO415のなかでは次のような役割をあげている。
「統合された並列性」。これは複数のものを一つとして捉える能力といえようか、例としては山の頂上から街を眺めた場合、私たちは目に見えるものをすべて描写することなく一つの画像として混乱せずにそれをうけいれることができる、このようなことをいう。これを可能としているのが 意識 であるという。しかし実のところ「哲学的ゾンビ」という形でもそれは可能だという。統合並列性のプログラムが入っていればそれですむことだということである。この考え方からいうと 意識 が可能としているといわれていることのすべては 哲学的ゾンビ においても可能だということになる。プログラミングされたままに、いささかの揺れもなく決断を下し判断し行動する。これはもしかしたら限りなく中立的な行動をとっているといえるのではないか。いってみれば 客観的 であるといえる。
茂木は論考の中でイギリスの数理物理学者ペンローズから
-意識がなければ「理解」も存在しない - というテーゼを引く。
私たちは世界に対してどのように対峙しているのであろうか。あるプログラムによりただ漫然と行動し時を消費する存在なのであると考えるとすれば、それはあまりに悲観的存在論といえないだろうか。私たちは決断し行動する前に 理解 するのである。意識、ココロを使って。
人間の機能的役割だけを求める社会の中において、意識を明確にし 哲学的ゾンビ ではない、という証が 主観的であるということではないだろうか。
すると、客観的であることは、主観的表現の現われとしての結果であると考えられる。
理解のためには主観的客観性が必要なのである。ここに織り込まれる客観性は、ゆれ幅のすくなくない意識(ココロ)の中で十分に考慮されたものでなければならない。そのとき、よりどころとなるべきものは人間の過去からの叡智ということになるのではないかと考えるのである。
JOHNY
ものごとを見る意識が主観なのか客観なのかという問題が立ち上がった場合に出される答えは、結局のところすべては主観のなせる業である、ということになろう。では何か判断を下そうとするときに客観的であろう、とすることは無益なことであろうか。
客観というものが主観から逃れられないものだとする根拠は、そのどちらもが人の 意識 というものに始点を置いているからである。意識はどのように生成するのか、という問いには現在のところはっきりと断定することはできないと考えられるが、今までの知見からすると脳活動と大きな関係を持ったものであるということははっきりといえる。しかしこのことは人に意識というものが必須であるということを現すものではない。
意識がない人間というものもありえるのではないか。たとえばそれは、身体的機能はおおよそ人間的機能をすべて果たすが意識がない人、こういう人を「哲学的ゾンビ」と呼ぶそうだ。生きて生活はしているが意識がない。意識がないと表現するとunconsciousということが浮かぶかもしれないので、意識がないとは ココロがない というように言い換えたほうがよいかもしれない。
意識の役割にはさまざまなものがあるが、今回参考にした茂木健一郎 「個別と普遍」ちくま連載 2005NO415のなかでは次のような役割をあげている。
「統合された並列性」。これは複数のものを一つとして捉える能力といえようか、例としては山の頂上から街を眺めた場合、私たちは目に見えるものをすべて描写することなく一つの画像として混乱せずにそれをうけいれることができる、このようなことをいう。これを可能としているのが 意識 であるという。しかし実のところ「哲学的ゾンビ」という形でもそれは可能だという。統合並列性のプログラムが入っていればそれですむことだということである。この考え方からいうと 意識 が可能としているといわれていることのすべては 哲学的ゾンビ においても可能だということになる。プログラミングされたままに、いささかの揺れもなく決断を下し判断し行動する。これはもしかしたら限りなく中立的な行動をとっているといえるのではないか。いってみれば 客観的 であるといえる。
茂木は論考の中でイギリスの数理物理学者ペンローズから
-意識がなければ「理解」も存在しない - というテーゼを引く。
私たちは世界に対してどのように対峙しているのであろうか。あるプログラムによりただ漫然と行動し時を消費する存在なのであると考えるとすれば、それはあまりに悲観的存在論といえないだろうか。私たちは決断し行動する前に 理解 するのである。意識、ココロを使って。
人間の機能的役割だけを求める社会の中において、意識を明確にし 哲学的ゾンビ ではない、という証が 主観的であるということではないだろうか。
すると、客観的であることは、主観的表現の現われとしての結果であると考えられる。
理解のためには主観的客観性が必要なのである。ここに織り込まれる客観性は、ゆれ幅のすくなくない意識(ココロ)の中で十分に考慮されたものでなければならない。そのとき、よりどころとなるべきものは人間の過去からの叡智ということになるのではないかと考えるのである。
JOHNY
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