「ラティハンとは何であるのか?」
そういう質問に対して「ラティハンと言うものはこういうものだ」という説明がなされる。
その説明の元になっているものは、コトバは、ボキャブラリーは、情報は、知識は、今まで地球上に存在してきたものである。
まあ当然ですね。
従来のものを、既知の物を使うしか説明、あるいは証明と言う行為はできませんからね。
そうしてそれが説明の限界、証明の限界なのであります。
そういうものを超えてしまったらもはや説明は不可能、証明は不可能になります。
そういうわけで、本当は「ラティハンは説明不可能」なのです。
しかしそうはいっても、それでは「身もふたもない話」になってしまいますので、そういう訳にもいきません。
それでラティハンに対していろいろとバパは説明してくれたのであります。
ジャワ語をつかって、インドネシア伝統の文化をつかって、イスラムを使って、アブラハムの宗教をつかっての説明でありました。
しいて言うならばそれはラティハンのバパバージョンの説明であります。
その意味は「ラティハンはバパの説明を超えている」という事であります。
しかしながらそれは誰が説明してもその人の使うコトバ、その人の暮らす文化、宗教、思想によってしか説明はできないのですから、どのような説明が展開されようとも、その説明をラティハンは超えているのです。
さて、そのような事を前書きとして、逆にラティハンからの照明を、光を、見えてくるものを少々書いておきます。
ラティハンを説明するために使われた宗教的な説明、あるいは宗教そのもの、それに対して今度は逆にラティハンからの照明があたります。
ラティハンによって見えてくる宗教の意味、本体、実体がありそうです。
そのような話をすると既存の宗教権威からは反発がきそうです。
「我々が宗教の実体を知っている者だ。」という訳ですね。
しかしながら我々庶民にしてみればそのような「えらいさん」がどのような実体をつかんでいるのか、などという事はどうでもよい話であります。
要は、生まれてきて、いずれはこの世を離れるであろうこの身に起こる事を知りたい、という話でありますら、それがわかればいいのであります。
そうしてどうやらラティハンはそういう希望に答えてくれそうな、人から人に手渡すことができる、技術、テクニック、方法、礼拝、啓示、天啓、恩沢、ワヒューなのであります。
それは日常生活では人の内省と自覚と努力を要求し、その結果は変容、覚醒、救い、解脱をもたらす可能性があります。
注:「可能性がある」という意味。
上記の「結果」に書かれている内容は、いままではいわゆる「宗教的天才」によってしか達成された事がなかったものです。
したがって、それらの事を達成するのは、どのような道をめぐるにせよ難しい、と言うのが実情です。
しかしながらラティハンの道はそれに比べれば比較的にたやすい道ではありますが、そうかといって無条件にラティハンさえ実習していればそのようなところにたどり着ける、という訳でもなさそうです。
バパがカルマと呼ぶ、先祖から引き継いできた内部感覚にため込んでいる浄化対象のごたごたの多い少ないという違い、会員がどれだけ忍耐と誠実さをもってラティハンに従っていけるのか、という時間軸上の試練、そうして同時に日常生活ではラティハンの注意にどの程度従っていけるのか、という問題、そういう個人個人に帰属する問題があります。
そういう問題がクリアできれば、バパが主張している様なロハニと言われるような状態に達することが出来るかと思われます。
そういうわけで、ラティハンの道はある種の宗教とは異なり、~すれば天国は(あるいは極楽は)保証される、というような道とは違います。
(最終的にはラティハンの道に従う事でどの程度まで内部感覚の浄化が進んだのか、という事がポイントであって、そうならない状況では、そのようにできない状況では、多くを望むことは難しいと思われます。)
PS
アブラハムの宗教では入信と宗教が教える行為の実践、神への礼拝によって信者さんは天国に行くことができる、とされている様です。
さてそれは基本的には信仰対象となっている「神」によって「良いかな」とされたものが「(死後に)天国に至る」のであります。
それではラティハンではどうでしょうか?
ラティハンは手段、方法であって、それによって我々の内部感覚内に積もったあやまり、あるいはカルマを浄化することによって天国に至るのであります。
そうしてそのような浄化の過程、あるいはその結果というものは自覚的に認識可能なものの様であります。
さてそういうわけで、死後に神の審判を待つ必要はなく、生前において死後の行く先が分かるとバパは言っているのでありました。
追伸
以上のような事はバパは強調されませんでした。
バパが暮らしたジャワはインドネシアではほとんどの協会の会員はイスラムでした。
そのような中で「単にイスラムであるだけでは天国に(あるいは緑園に)いけませんよ」と声高に言う事は相当の反発を覚悟する必要がありました。
そうして、そのような事はバパは望まれませんでした。
したがって「分かるものだけに分かる」様にしか話されませんでした。
しかし、本質はごまかす事はできません。
そういう意味では、アブラハムの宗教が宣言している内容と、バパの主張は実は鋭く対峙しているものなのであります。
PS
ラティハンは結局はラティハンなのです。
バパはそれを「トウハン ヤン マハ エサ(Tuhan Yang Maha Esa):唯一神」への礼拝である、と言いました。
通常は礼拝というのは対象となるものをあがめ、賛美し、その対象に帰依することでありましょう。
礼拝したら浄化が起こり、意識の覚醒が起こる、という話は聞いた事がありません。
しかしながらラティハンは「浄化のプロセス」でもあり、そうして「意識が覚醒する道」でもあります。
そうでありますからラティハンは従来の言い方では「行」とか「瞑想」とかいわれるもの、そこに分類されても少しもおかしくはないのでありました。
しかしながらイスラムには「瞑想」という概念がありません。
それでバパはラティハンを「礼拝である」というのでした。
ところでバパはズィクルを行っていました。
そうしてズィクル(dhikr)というのはスーフィ達が行う瞑想の事でもあります。<--リンク
しかしながらイスラムではそれを「礼拝である」と言い、バパもそのように言うのでした。
さてそれではズィクル(dhikr)というのは礼拝でしょうか、それとも瞑想ですか?
同様にラティハンと言うのは礼拝ですか、それとも瞑想ですか?
その答えはズィクル(dhikr)と同様に「ラティハンは礼拝でもあり、また瞑想でもある」というのが妥当なところでしょうか。
「いやそれではバパのコトバに反する」というのであれば「ラティハンはラティハンである」と言うのが公平というものでありましょう。
PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク
そういう質問に対して「ラティハンと言うものはこういうものだ」という説明がなされる。
その説明の元になっているものは、コトバは、ボキャブラリーは、情報は、知識は、今まで地球上に存在してきたものである。
まあ当然ですね。
従来のものを、既知の物を使うしか説明、あるいは証明と言う行為はできませんからね。
そうしてそれが説明の限界、証明の限界なのであります。
そういうものを超えてしまったらもはや説明は不可能、証明は不可能になります。
そういうわけで、本当は「ラティハンは説明不可能」なのです。
しかしそうはいっても、それでは「身もふたもない話」になってしまいますので、そういう訳にもいきません。
それでラティハンに対していろいろとバパは説明してくれたのであります。
ジャワ語をつかって、インドネシア伝統の文化をつかって、イスラムを使って、アブラハムの宗教をつかっての説明でありました。
しいて言うならばそれはラティハンのバパバージョンの説明であります。
その意味は「ラティハンはバパの説明を超えている」という事であります。
しかしながらそれは誰が説明してもその人の使うコトバ、その人の暮らす文化、宗教、思想によってしか説明はできないのですから、どのような説明が展開されようとも、その説明をラティハンは超えているのです。
さて、そのような事を前書きとして、逆にラティハンからの照明を、光を、見えてくるものを少々書いておきます。
ラティハンを説明するために使われた宗教的な説明、あるいは宗教そのもの、それに対して今度は逆にラティハンからの照明があたります。
ラティハンによって見えてくる宗教の意味、本体、実体がありそうです。
そのような話をすると既存の宗教権威からは反発がきそうです。
「我々が宗教の実体を知っている者だ。」という訳ですね。
しかしながら我々庶民にしてみればそのような「えらいさん」がどのような実体をつかんでいるのか、などという事はどうでもよい話であります。
要は、生まれてきて、いずれはこの世を離れるであろうこの身に起こる事を知りたい、という話でありますら、それがわかればいいのであります。
そうしてどうやらラティハンはそういう希望に答えてくれそうな、人から人に手渡すことができる、技術、テクニック、方法、礼拝、啓示、天啓、恩沢、ワヒューなのであります。
それは日常生活では人の内省と自覚と努力を要求し、その結果は変容、覚醒、救い、解脱をもたらす可能性があります。
注:「可能性がある」という意味。
上記の「結果」に書かれている内容は、いままではいわゆる「宗教的天才」によってしか達成された事がなかったものです。
したがって、それらの事を達成するのは、どのような道をめぐるにせよ難しい、と言うのが実情です。
しかしながらラティハンの道はそれに比べれば比較的にたやすい道ではありますが、そうかといって無条件にラティハンさえ実習していればそのようなところにたどり着ける、という訳でもなさそうです。
バパがカルマと呼ぶ、先祖から引き継いできた内部感覚にため込んでいる浄化対象のごたごたの多い少ないという違い、会員がどれだけ忍耐と誠実さをもってラティハンに従っていけるのか、という時間軸上の試練、そうして同時に日常生活ではラティハンの注意にどの程度従っていけるのか、という問題、そういう個人個人に帰属する問題があります。
そういう問題がクリアできれば、バパが主張している様なロハニと言われるような状態に達することが出来るかと思われます。
そういうわけで、ラティハンの道はある種の宗教とは異なり、~すれば天国は(あるいは極楽は)保証される、というような道とは違います。
(最終的にはラティハンの道に従う事でどの程度まで内部感覚の浄化が進んだのか、という事がポイントであって、そうならない状況では、そのようにできない状況では、多くを望むことは難しいと思われます。)
PS
アブラハムの宗教では入信と宗教が教える行為の実践、神への礼拝によって信者さんは天国に行くことができる、とされている様です。
さてそれは基本的には信仰対象となっている「神」によって「良いかな」とされたものが「(死後に)天国に至る」のであります。
それではラティハンではどうでしょうか?
ラティハンは手段、方法であって、それによって我々の内部感覚内に積もったあやまり、あるいはカルマを浄化することによって天国に至るのであります。
そうしてそのような浄化の過程、あるいはその結果というものは自覚的に認識可能なものの様であります。
さてそういうわけで、死後に神の審判を待つ必要はなく、生前において死後の行く先が分かるとバパは言っているのでありました。
追伸
以上のような事はバパは強調されませんでした。
バパが暮らしたジャワはインドネシアではほとんどの協会の会員はイスラムでした。
そのような中で「単にイスラムであるだけでは天国に(あるいは緑園に)いけませんよ」と声高に言う事は相当の反発を覚悟する必要がありました。
そうして、そのような事はバパは望まれませんでした。
したがって「分かるものだけに分かる」様にしか話されませんでした。
しかし、本質はごまかす事はできません。
そういう意味では、アブラハムの宗教が宣言している内容と、バパの主張は実は鋭く対峙しているものなのであります。
PS
ラティハンは結局はラティハンなのです。
バパはそれを「トウハン ヤン マハ エサ(Tuhan Yang Maha Esa):唯一神」への礼拝である、と言いました。
通常は礼拝というのは対象となるものをあがめ、賛美し、その対象に帰依することでありましょう。
礼拝したら浄化が起こり、意識の覚醒が起こる、という話は聞いた事がありません。
しかしながらラティハンは「浄化のプロセス」でもあり、そうして「意識が覚醒する道」でもあります。
そうでありますからラティハンは従来の言い方では「行」とか「瞑想」とかいわれるもの、そこに分類されても少しもおかしくはないのでありました。
しかしながらイスラムには「瞑想」という概念がありません。
それでバパはラティハンを「礼拝である」というのでした。
ところでバパはズィクルを行っていました。
そうしてズィクル(dhikr)というのはスーフィ達が行う瞑想の事でもあります。<--リンク
しかしながらイスラムではそれを「礼拝である」と言い、バパもそのように言うのでした。
さてそれではズィクル(dhikr)というのは礼拝でしょうか、それとも瞑想ですか?
同様にラティハンと言うのは礼拝ですか、それとも瞑想ですか?
その答えはズィクル(dhikr)と同様に「ラティハンは礼拝でもあり、また瞑想でもある」というのが妥当なところでしょうか。
「いやそれではバパのコトバに反する」というのであれば「ラティハンはラティハンである」と言うのが公平というものでありましょう。
PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク