ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

スシラ ブディ ダルマ・5章 ムハンマドによってもたらされた道//

2018-04-17 | 日記

まずはスシラ ブディ ダルマに記述されている該当部分の文章を見てゆきましょう。

スシラ ブディ ダルマ 13章 ダンダングラ 14節~20節
『14、このことをはっきりとさせる為には、ある独身の若者が同程度に人間力に満たされている処女と結婚すると、その結婚によって二人はどのようになるかを述べるのが最善であろう。
これはまさに理想的な場合の例である。
というのは、たまたまこのような結婚をする事が出来た男性は二人の間に固く強い生命の絆をすみやかに作り上げる事ができ、その絆によって二人は同じ一つの力すなわち人間力によって満たされ、結びつけられるからである。

15、人は常にこのような結婚を求めている。
なぜなら、性的合一の時に、二つのからだの中の力が容易に一つに溶け合い、二人とも内的に別個の存在であるとはもはやまったく感じなくなるからである。
このような訳で、女性はしばしばガルワ(garwa)、すなわち夫の命の半分とよばれる。
またそれゆえに結婚した女性は夫の姓を名乗るのである。

16、このような結婚の結果、平和と調和がもたらされるばかりでなく、さらに生活の繁栄への道が開かれる。
もしも彼らがこのような結婚で子供をもうけると、男性の自我を通って訪れる人間の種子の力で彼の身体感覚が呼びさまされよう。

17、そして感覚がこのようにして呼びさまされると、その欲望が何処から来ているのかが直ちに感じられ、さらに彼は合一の間の自分の状態に気が付いている事ができるであろう。
従ってそれは彼にとっては一つの内的な覚醒になるであろう。

18、それ以降彼は、自分の持つ従属的な力(注:4つの低次の諸力)、すなわち彼の自我の内部(注:内部自我:Diri Pribadi)で絶えず結びついたり離れたりしているさまざまな力(注:4つの生命力)の全ての特徴を認識するように少しづつ導かれるであろう。

19、その場合にも彼は常に指示を受けて従属的な力とそれ以外の力を次第により熟知するようになる。
そうなれば彼は、依然としてそれらの力と結びついたり、結びつかれたりしていても、それにしばられず支配されず、彼はそれらの力からより離れていられるようになったと言えるであろう。

20、これがあるべき姿である。
しかし実際にはそうなることは極めてまれである。
なぜなら人々は、特に若者たちは普通はまだ自分の内部の力(注:生命力)に気づこうとはしないからである。
そうして、生涯の伴侶として結婚する女性の選択を、彼等はクジワアンの見地からではなく、単にお互いのハートを近づけるだけの日常の社会的交際に基づいて行っている。
(注:しかしながら、今や女性も男性も自分の結婚相手をJiwaの相性、魂の伴侶という観点からではなく、世的な評価基準とハートの相性によって決めているのが普通の様であります。)』

さて、13章 ダンダングラ 16節から
And if within the marriage they conceive a child, the force within the human seed coming through the man’s self will awaken his bodily feelings.
そして結婚の中で彼らが子供を宿すならば、男の自我を通って訪れる「人間の種子の中の力」が男の身体感覚を目覚めさせるでしょう。<--リンク

それで、この話は上記の文がキーポイントになります。
そして14節~20節に書かれているように、二人のジャスマニレベルにある男女が結婚して子作りにはげみ、そうしてめでたく子供を授かった場合の事が書かれています。
そのような体験が男性にとっては「それが一種の内的な覚醒体験となり、それを契機として自分の内部にある諸力を見分けること、さらに進んでは支配する事ができるようになる」とされています。
そうして次には、「妻との性的な合一という行為の中にある秘密(結婚の秘密)にも気がつくようになる」とされます。<--リンク
こうして彼は妻と二人そろってジャスマニからロハ二へ向かう旅に出ることができるのであります。

以上の話の中ではラティハンの事については一言も触れられておりません。
そうでありますから、バパの認識では「本来はこのようにすでに道は用意されていたのだ」という事になります。
しかしながら、残念な事に人類はその道から外れてしまった、と。
その為に、その対応策としてラティハンが出現したと、そういうストーリーになっているのでありました。
そうして以下のトークで示すように、「ラティハンが出現する前にすでに存在していたこの道は、実はムハンマドによってもたらされていた道である」というのがバパの主張になります。

(London 1959/8/11 by library、 8/1 by定訳集)トークより引用
ムハンマドによってもたらされた礼拝
『・・・・・
そして、ムハンマドと彼の妻との性的合一が真実になって神に向かって礼拝する行為になったので、ムハンマドが神を礼拝することがより容易になりました。

男性と女性の性的合一は、真の礼拝行為であると神によって定められました。

これは、イスラムの宗教に従って、モスクで行われた結婚式で示されています。
ここで、男女は真の夫と妻になることを宣言して確認するために、「アッラーフ(神)の他に神はなし。ムハンマドはアッラーフの使徒である。」という信仰告白を唱和する必要があります。
この行為によって、夫婦は彼らの存在を神に誓うこと、そして彼らは神の目撃者であることを認めています。

これはそれがどのように実践されたかです。
ムハンマドの追随者や他の多くの人間が、夫と妻の性的合一を純粋にし、礼拝の行為をしました。
それで彼らは真実、神を礼拝することができました。

しかし、バパは再び、人間は人間のままであると言います。
とても素晴らしく幸福な礼拝行為にもかかわらず、彼らは再び、彼らの楽しみと喜びの中で、彼らがこの世界の環境の影響力と圧力にさらされていること、そして低次の諸力の侵入、それは人間が純粋な目標を達成するのを妨げる傾向があると言う事を忘れてしまいました。
だから、ほとんどの人にとって、男女の合一は、礼拝の行為ではなく、再び彼らの情熱の喜びに過ぎなくなりました。

現実には、性的合一の真の性質は要約(繰り返し)というものであり、それを通して人間は「存在する前と後の両方で自分の状態を認識して知ることができなければならない」というものです。
あなた方は本当にそのように認識しなければなりません。
そうでなければあなたは単に車が通り過ぎた道のようで、その車がどこから来たのか、どこに行ったのか知ることがありません。
それは本当に失望する事であり、本当に全能の神を悲しませています。
なぜ人間はこれを理解できないのですか?

それで兄弟姉妹の皆さん、あなたの子供がどこから来たのか、あなたの子供があなたを通過しても何が起きるのか、皆さんは知らないのです。
子供はどこから来たのですか、そしてどこに行くのですか?

しかしあなたがこれを意識すると、「私が存在する前に私はどのようになったのか?」を意識していることになるでしょう。
そして、「後で(地上を、この世界を)離れるときはどうなるのか?」がわかります。
(注:つまり、「死後の自分の状況を前もって知る事ができる」という主張です。)

以上のように、これらはアブラハムからムハンマドまでの預言者たちが受けた戒めがどれほど優れているかという事です。
しかし、人間は人間のままであり、世界の雰囲気にとても容易に左右されます。
何が起こっているのかを意識することなく、時間が経つにつれて、彼らは自分たちの欲望、意志、思考心、そして心の力に従うことをますます重要にしていきます。
・・・・・』

ムハンマドに与えられた天啓もこうして本来の意味を失っていきました。
そうして時代は現代に至り、ついにラティハンの登場を迎えたのであります。
・・・というのがバパの主張する「ラティハン登場にいたるまでの歴史的な経緯」になります。

但しそのような説明は人類すべてに受け入れられるものではなく、結果的にはあるグループは受け入れた様ですが、あるグループはその主張を拒絶した模様です。
こうして人類のあるグループはラティハンを受けることができ、あるグループはラティハンを受けることが出来なくなりました。

(注:上記のようなイスラムの到来による恩恵についての理解の仕方はかなりバパの独自性が出ている様に思われます。
そうして、そのような理解はイスラムの中では主流派、正統派ではない様です。
ただしイスラム神秘主義のなかに、たとえばイブン・アラビーの著作の中に似た考え方を見つけることは可能の様です。)<--リンク

追記
上記(London 1959/8/11)トークでは、イスラム教徒が結婚式で信仰告白をすれば、自動的にその夫婦の子作りの行為が礼拝の行為になる、と誤解しそうであります。
しかしながら、事実はそうではなく、結婚式での夫婦の唱和は単に「その夫婦がスタートラインに立った」と言う事を表しているにすぎない様です。
そうであればこそ、単に儀礼としての信仰告白のみでは夫婦の子作りの行為は礼拝にまで高まる事はなかったのであります。
(信仰告白の宣誓という行為自体に何か不思議な霊的な力があって、それが人を浄化する、、、という事はないということになります。)

そうしてまたこのことは以下のトークからも推定できそうです。
(6月13日1963 バパ)より<--リンク
実際、男女の合一は、兄弟姉妹の皆さん、本当に人間と神の間の礼拝の行為です。
しかしそれは、誰でもそうであるのではなく、神の恵みを受けた人間にのみ適用されます。
それ以外の人では礼拝にはならず、喜びの行為になるだけです。
それは彼らの動物力の欲望、彼らの植物力の欲求、そして彼らの物質力の欲求を満足させる方法です。
それは一般的に、つまりは男と女の合一は礼拝の行為ではないということです。
・・・・・

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