唯一神への信仰。
バパが「大切ですよ」と強調するものです。
さて、それはそれでいいのですが、この「唯一神」が何を指しているのかはどこにも明示されていません。
(ちなみに「唯一神」はトークでは「・Tuhan Yang Maha Esa」と書かれています。)<--リンク
もちろんバパはイスラム教徒ですからバパにとっての「唯一神」は「アッラー」であります。
さてそうであれば「唯一神への信仰」などと言わずに「アッラーへの信仰」といえばいいのであります。
でもそうは言えないのですね。
そう言ってしまっては「ラティハンはイスラム教徒専用」ということになってしまいます。
それでパンチャシラの表現にならって「唯一神への信仰」と言われたのでありました。
さて、このあたりの事情は先行していたパンチャシラでも同じでありました。<--リンク
そうして選ばれた言葉が「Tuhan 神」でしたね。(KeTuhanan yang Berkebudayaan)
それでインドネシアでは「パンチャシラのもと、全ての宗教は唯一神への信仰をしているもの」とされています。<--リンク
そしてwikiによれば「インドネシアではイスラム教、プロテスタント、カトリック、ヒンドゥー教、仏教、儒教の6つの宗教が公認されているが、無神論は違法であり、公言をすると逮捕される可能性がある」とのこと。<--リンク
ですからインドネシアでは「ラティハンはイスラム教徒、キリスト教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒、儒教徒御用達」ということになります。
一方インドネシア人でない我々にとってみれば「唯一神」とは一般的には「アブラハムの宗教の神のこと」でありますね。<--リンク
そういう風に理解すると「ラティハンはユダヤ教徒、キリスト教徒、そうしてイスラム教徒御用達」ということになります。
さあそれではバパはいったいどの意味合いで「唯一神への信仰」を語ったのでしょうか?
バパが言った「唯一神」というコトバの正体は何でありましょうか?
いずれにしても「ラティハンは全ての人類のものである」と言うバパでありますから、すくなくとも「パンチャシラ程度の包容力」は必要でありましょう。
そうしてパンチャシラが言う「唯一神への信仰」。
実はこの「唯一神」という概念はインドネシアでは古くからの伝統のあるものの様であります。
そのあたり、試訳(中辻 正)「スマルとは何者か?」を参照してみていきましょう。<--リンク
たとえば「唯一なる神格 Ketuhanan yang Maha Esa (39 Page)」
有史以前のインドネシアの祖先たちが、完成したク・トゥハン・アン(絶対的神格)に対する理念と概念を持っていたことは、すでにたびたび確認してきた。
それゆえ、パンチャシラ Pancasila の第一原則、『唯一神への信仰は真に有史以前からの独自の個性を打ち立てたものである。』にも明記されている。
この唯一神への信仰の原則ゆえに、インドネシアに存在するすべての宗教と信仰は束ねられ得るのである。
それは『ビネカ・トゥンガル・イカ・タン・オノ・ダルモ・マングルウォ BHINEKA TUNGGAL IKA TAN HANA DHARMA MANGRWA 、すなわち、様々な色は、二つとわけることの出来ない『真実』(神)があって、ひとつにすることができる』ということである。
・・・・・とか
あるいは「神聖と神聖なるもの (43 Page)」
これまでの解説にさらに加えるものはもう無いと著者には思えるが、我々の祖先の才は賞賛に値するといえる。
その時、彼らは既に完全なる神性の理念と概念を持っていたのである。
そしてこの意見には同意が得られると思うが、パンチャシラ(第一原則、唯一神への信仰)は、国とインドネシア民族の人生哲学の基礎とされるものであり、個人各々の人格の上に堅固なそびえ立つ『神聖・超越的』理念である。
・・・・・などであります。
インドネシアに限らず「聖なるもの」はそうやって世界各地でいろいろな民族によりいろいろなコトバで言い表わされてきました。
それゆえに、そういうものを全て包括できる「唯一神」でなければバパが主張する「ラティハンは全ての人類のものである」というような状況は決して生まれることはないのでありました。
PS
本来は名前など持つ必要がないのが「唯一」にして「超越しているもの」であります。
でもそれでは困るのが人間でありました。
そうやって世界各地でいろいろな名前で呼ばれる様になったのです。
そうして、そうであればどのような名前で呼ばれようとも「超越しているもの」には本来は関わり合いのないこと、少しも困らない事なのでありました。
PS
つまり「インドネシアの仏教徒は「唯一神を信仰」している事になっている」のです。
↑
さてこう書きましたが、これは「日本人から見た感想」です。
インドネシアの仏教徒は「Tuhan Yang Maha Esa」を本気で信仰している可能性があります。
(「唯一神」はインドネシア語では「Tuhan Yang Maha Esa」と書かれます。)
その「唯一神への信仰」と言うのは、とても古くからあるものでその上にまずは仏教とヒンドゥー教が伝来し、そしてのちにイスラム教とキリスト教が入ってきた、というのが歴史です。
(仏教とヒンドゥー教は端の方に押しやられました。)
そして、インドネシアの人たちは「それらの外来の神はすべてTuhan Yang Maha Esaが形を変えたものであり、本質は同じだ」ととらえている所があります。
そうでありますから、我々の目には一見無謀な、無理筋に見えるパンチャシラ Pancasilaが成立するのでありましょう。<--リンク
その一番目に
1、唯一神への信仰 (Ketuhanan Yang Maha Esa)
と言う事が決められています。
↑
インドネシアの人はこれを認めそうして『インドネシアではイスラム教、プロテスタント、カトリック、ヒンドゥー教、仏教、儒教の6つの宗教が公認されているが・・・』
これらの宗教は全て「唯一神を信仰するもの」と認めているのであります。
そして当然、オープンの時の宣誓も「Tuhan Yang Maha Esa」を信仰しますね、と聞かれるのですから「NO」と言う人はいないのです。
「唯一全能の神」などとは聞かれないのですよ。
これがインドネシアでの状況です。
さて日本ではどうなったか?
まずは「Tuhan Yang Maha Esa」が英訳されます。
クリスチャン文化圏の英訳者はそれを God Almighty とかThe only almighty godと英訳し、日本人はそうやって英訳された文章から「唯一全能の神」と訳します。
そうしてこう聞かれるのです。
「唯一全能の神」を信じますね?と。
おまけに伝わってくるバパのトークは全て「スブドの神はアブラハムの宗教の神」のように書かれています。
それじゃ「唯一全能の神」とはあれの事か、となりますよね、普通は。
さてそれで困ってしまうのは仏教徒でした。
・・・・・
世界中の翻訳者はこうしてインドネシア語から英語に翻訳されたものを第二原典として、そこから自国語に翻訳していきました。
従って、世界中でオープンの時の宣誓は「唯一全能の神」を信仰します、と言わねばならなくなったと、そういう事の次第であります。
全ての呼び名を超える存在としての「Tuhan Yang Maha Esa」と言う概念はインドネシアにしか存在しない様です。
そのためにこうした誤解、あるいは混乱が発生し、世界中に広まっていったのであります。
2019/1/19
PS
インドネシアでは憲法のもとで全ての国民は何らかの宗教を持ち、そうしてそれらの宗教は全て「唯一の神を信仰している」のでありました。
従ってインドネシア国民はバパが設立した協会に入る時に「自分の宗教が障害になる」というようなことは決して無いのであります。
そうしてそのような状況が成立している為、「バパが作った協会は宗教フリーである(どのような宗教をお持ちでも問題なく入会できますよ、、、という意味)」と主張することがインドネシアでは可能になるのでありました。
でもこれはインドネシアでのみ通用する話であります。
憲法で本当の「宗教の自由(信教の自由)」を規定している国々では「宗教ではない」と言いつつ「唯一神を信仰せよ」という協会のルールでは「憲法違反のおそれ」があるようにも見えますね。
それでも「信仰の踏み絵」を要求するならば、まずは自分たちを「宗教団体」と表明してからにするべきでありましょうか。
そうするのが「フェア(公平)」というものであります。
事実我々は「何を信仰し何を信仰しないか(どのような圧力であれ受ける事なく)決める自由」があります。
そうして「宗教団体ではない」と公言しているバパが作った協会に入るにあたって「信仰の踏み絵」を踏む必要はないのです。
但しバパの説明を聞いていただく事は必要でありますが、その上で「入ります」と表明すれば「拒否される理由」はどこにもありません。
以上が入会にあたって「確認が必要な事のすべて」なのでありました。
そうして実際に会則条項のどこにも「入会するには信仰の踏み絵が必要」とは書いてありません。
それどころか「宗教はいっさい問わない」とあります。
「何を信じ何を信じないか自由である」と。
そうして「問わない」のでありますから、「信仰の踏み絵」などはもってのほかであります。
これは自分たちで作ったルールですから守るのは当然のこと、当たり前でありますね。
さて「そのような協会の意向に反対するような事を考えているとラティハンが止まってしまうぞ」というような声が聞こえてきそうです。
いいえそんな心配は不要ですね。
スシラブディダルマにこう書かれてあります。
「欲望や願い、そうして感情や思考、そういうものを自分から離して正しく全託できればラティハンを受けられます」とね。
そうしてどこにも「あれを信じなさい。これを信じなさい。」
「そうしないとラティハンにはなりません」とは書いてないのでありました。
PS
インドネシアで宗教とはパンチャシラ(→365)の"最高神への信仰"で唯一神への信仰とされている。
仏教もヒンドゥー教も唯一神に体系化されている。
クバティナンはスハルト大統領になってから宗教ではなく信仰、即ちジャワ固有の文化として認められた。
管轄も宗教省でなく、教育文化省である。
以上、インドネシア専科よりの引用でした。
詳細は707.クバティナンを参照ねがいます。 <--リンク
(引用注:もちろんバパが作った協会もクバティナン登録なのでありました。<--リンク
そうしてインドネシアでは「宗教と信仰は別物」の様でありますね。)
PS
こちらでは付論にて「(インドネシアでの)信仰の誕生」が語られています。<--リンク
(うまくリンクできない時はhttp://d-arch.ide.go.jp/idedp/ZAJ/ZAJ200306_021.pdfにて。)
PS
1997年に出版されたAntoonさんの本でも83ページで「信仰の誕生」が語られていました。
Santri Roh Antoon でググってみて下さい。
Antoonさんの本にGoogleぶっく検索結果としてヒットしますので、ご確認をお願います。
PS
On The Subud Way14ページはスシラブディダルマからの引用になっています。
さてスシラブディダルマでは「全能なる神(アッラー)」と記述されていますが、On The Subud Wayでは「全能の神」とだけ記述されています。
さて質問です。
バパはどのように語られたのでしょうか?
答えは「アッラー」でしょうね。
でも我々はそれでは都合が悪くなったので「アッラー」を表示しなくなったと。
まあそういう訳であります。
そうしてそれが「時代の流れに合わせてバパのコトバを変える」ということなのでありました。
PS
米国:同性婚拒否の職員釈放 カップルらに証明書交付され<--リンク
時代の流れであります。
こうして協会発行のHガイドブックも修正を余儀なくされたのでありました。
さてこれはバパのコトバを変更した事にはあたらないのでしょうか?
PS
日本で「唯一神への信仰」という教義を広めたいのなら宗教団体を名乗るのがまっとうなあり方でありましょう。
「一般社団法人を名乗りながら教義を広める」、、、というのでは「団体としての誠実さ」が疑われても言い訳ができませんね。
ちなみに「唯一神への信仰」で「魂がサルベーション(救済)される」とするのはアブラハムの宗教では「基本中の基本」となる話であります。
PS
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