隊員NO.6れいなで~す
10月10日(木)の加賀市観光ボランティア大学第13回講座で、西島明正さんに
「山中温泉と松尾芭蕉」について教えていただいたことを、先生の著書
『芭蕉と山中温泉』を参照しながら、ご紹介してきました。
今日は、芭蕉の山中との別れ、そして弟子の曽良との別れについて、あさの先輩の
記事を再録しながら、ご紹介します!!
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いよいよ芭蕉が山中を旅立つ時を迎えました。そして、この旅立ちは「奥の細道」で
苦楽と共にしてきた芭蕉と曽良の別れの時でもありました。1689(元禄2)年8月5日
(新暦9月18日)のことです。
二人はこれまでの旅を振り返りながら、それぞれの思いを句に託しています。
曾良は腹を病(やみ)て、伊勢の国長島と云う所にゆかりあれば、先立(さきだち)て
行(いく)に、
行行(ゆきゆき)てたふれ伏すとも萩の原 曾良
(病身のまま旅立ち、このまま行けるところまで行って倒れたとしても本望だ。できること
なら萩の咲く野原で死にたいものだ。それくらい旅にかける志である。)
と書置(かきおき)たり。行(いく)ものゝ悲しみ、残(のこる)もののうらみ、隻鳧(せきふ)の
わかれて雲にまよふがごとし。予も又、
今日よりや書付消さん笠の露 芭蕉
(ずっと一緒に旅を続けてきた曾良とはここで別れ、これからは一人道を行くことになる。
笠に書いた「同行二人」の字も消すことにしよう。笠にかかる露は秋の露か、それとも
私の涙か。)
また、立花北枝も山中を去る気持ちを
きくの里みるたびなかむゆの名残 北枝
とよみました。
昼頃になりました。芭蕉と北枝は、曽良や山中の俳人たちの見送りを受けて、黒谷橋を渡り
那谷寺にむかって旅立ちました。
曽良もまた、燕が南に帰って行くその後を追うように、大聖寺に旅立ったのです。