隊員NO.6れいなで~す
加賀市観光ボランティア大学で、講師の西島明正先生から教えていただいた
松尾芭蕉の『奥の細道』や『芭蕉と山中温泉』のことについてレポートしています。
松尾芭蕉の『奥の細道』は、紀行文という文学作品で、物語をスムーズに進めるために
日にちが前後しているところがあったり、現実とは違うフィクションが描かれている場合も
多いそうです。たとえば、芭蕉が平泉(岩手県)で詠んだという
「五月雨の 降りのこしてや 光堂」
<まわりが、雨風で朽ち落ちていく中で、光堂だけが昔のように輝いている。
まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているように思われることよ。>
は、この日とてもよいお天気だったにもかかわらず、まるで五月雨が降っていたかのように
表現されています。また芭蕉が越後路(いまの上越市直江津)で詠んだ
「荒海や 佐渡によこたふ 天河(あまのがわ)」
<荒れ狂う日本海の荒波の向こうには佐渡がある。空を見上げると、白く美しい天の川が、
佐渡の方にまで横たわっていて、とても雄大だ。>
も、この日は雨で、天の川は見ることができず、また夏の日本海は波も静かで「荒海」では
なかったそうです。
そのようなフィクションも多い『奥の細道』を正しく読み解く上で、とっても重要な史料が、
芭蕉の『奥の細道』に随行した弟子・河合曽良(1649~1710年)がつづった
『奥の細道随行日記』なのです。曽良は誠実で几帳面な性格だったようで、江戸にいる時
から芭蕉の身の回りの世話をし、『奥の細道』の旅では芭蕉の秘書的役割を果たしました。
そこで、芭蕉を研究される方々は、曽良の『奥の細道随行日記』を参考に、史実を明らか
にするのだそうです。(この日記が発見されたのは、意外と新しく昭和18年のことです。)
この日記により、『奥の細道』における実際の日付・天候・旅程・宿泊その他の芭蕉の
動静がわかったり、芭蕉の制作意識をうかがい知ることができます。
石川県内においても、『奥の細道』では、芭蕉がまるで那谷寺を訪れた後に、山中温泉に
来たように描かれていますが、じつは、芭蕉は山中温泉で8泊9日逗留した後に、那谷寺を
訪れているのですよ。そもそも「奥の細道」と曽良の旅日記とでは、江戸深川をスタートした
日にちからして違っているそうです。「奥の細道」では3月20日となっていますが、曽良の
日記では3月27日になっています。
『旅日記』によれば、芭蕉が山中の道明ヶ淵(どうめいがふち)で川魚漁を見た日は快晴、
また芭蕉が山中から那谷道をたどって小松に戻った前日は朝から雨と記されています。
わたしたちは、曽良の『奥の細道随行日記』によって、「芭蕉と山中温泉」についてくわしく
知ることができるのですね!