毎年変らずおとずれるお盆。いや、お盆休みと言った方がいいかな。
実家では旧暦のお盆で、この時に帰省しない人はいない大事な行事。と言っても、実家の両親はもう50年以上前に静岡の地に来てしまっているので、そのまた実家に帰省させてもらうので、もちろん、毎年行けるわけではない。
こちらのオットの方の親戚はというか、こちらの地は7月のお盆で、休みではないし、本当にあっさりしている。
今年は両親の兄弟(私から見ると伯父さん)が相次いで亡くなり、このお盆休みに49日の法要をする伯父と、新盆と2つ重なって、私はこのお盆前の週末に実家母のお兄さんの49日の法要に、出かけてきた。
お葬式の時には、とりあえず、駆けつけるだけでやっとで、ゆっくりと話も出来なかったが(日帰りで雨の中出かけた)今回は泊まって、色々話も出来た。
その中で、実家の母の結婚前後の病気療養の話を聞いて、過疎の村、特に無医村地区の医療の現実と、今でこそ限界集落となっているが、当時はまだまだ若い人も沢山いて、86で亡くなった伯父さんの若い時にすでに、村に残る若者がおらず、残って農業と林業を続けた伯父さん夫婦の苦労も、改めて、従兄弟と思わず目頭が熱くなることとなった。
今でも無医村には変りないが、それでも今は道もよくなり、車が運転できれば近隣の市の病院に行く事も出来るが、母親が娘だったころ(今から60年以上前)は、月に1日だけ、近くの市立病院に、東京から手術の出来る医師が来て、まとめて手術をしていたのだそうです。
その為、手術の必要が切羽詰まっていなくても、「予防的に」手術をしていて、○○先生が来るからと、「ついでに」痛みも炎症もなくても、盲腸の手術をしたり、大してひどい胃炎でなくても胃の全摘なんてやっていたらしい。母親もどの程度の胃炎だったのかわからないけれど、丁度月に1度の手術の日の前に痛んで、「明日丁度先生が来るから」と手術してしまったらしい。
胃の全摘と、盲腸の手術。
これが、結婚前。その後実家で、未亡人だった人が子どもを連れて、泊まり込みで(当時は歩きしかなかったから、通いなんて出来なかった)看病に来てくれたのだそうで、それが、よく連れて行ってもらったあの、おばあちゃんのだったのだとわかった。
そして、回復してその後、私の父親と結婚して3日後に、腸閉そくを起こして、(年末だったそうで)病院に駆けつけるも、当時は検査も出来ず、「これは、お嬢さんの我儘病です」と言われて返され、その後大みそか、お正月、七転八倒の苦しみ、病院もやっていなかったので、それこそ、危うく命を落とすところだったそうです。
私も母親が危うく三途の川を渡りかけたのを引きとめた(と信じていますが)事があるのですが、その時だけでなく、その前にも危なかった事があり、それがわずか新婚3日目の出来事だったとは!
それは、「トンデモナイキズもののヨメをもらった!」と父親の長兄の嫁さんから、ののしられても、まあ、仕方が無いような状態だったんですよね。その後も何度も腸閉そくも起こしたし、私と弟を産む時も、帝王切開ですものね。
私も覚えていますが、私の弟が6歳で盲腸の手術をしているんですが、(50年前)入院した部屋も畳の部屋で、布団も持ち込み、確か食事も入院している家族が作ったような記憶があるんです。もちろん、個人の医院ですが。部屋の掃除も母親がやって、箒で掃く時に弟に「布団にもぐって」なんてやってたんですよ。ウチは近かったので、たぶん家で作った食事を持ってきていましたが、七輪を廊下に置いて作っている人もいましたからね。
だから、入院って本当に大変だったんですよ。
ましてや、お産なんて、病気じゃない。前日まで畑に出ていたなんて当たり前の時に、「帝王切開」ですものね。名前の通り、帝王=贅沢な人がするお産と、思われていたでしょうからね。
小さいながらも、両親がの中で、辛い立場にあり、すぐ上の兄夫婦(私から見ると伯父夫婦)の支えがあって生活している、そして、そのほかの上の方のお兄さんやその嫁さんからは疎んじられているというのは、感じていました。
せっかく当時とするとしゃれた、出窓のある、洋風の建物の家を建てたのに、その家をそのままにして、私が5歳の時に、静岡に転勤をして(県外への移動は希望が無いとなかったことなのだそうで)その後、帰ることなく、父親は静岡のお墓に眠っています。
今考えると、その家には2,3年しか住んでいなかったんですよね。
結婚前に1度、結婚直後の腸閉そくで、もう1度、更にお産2回にそのあとの腸閉そくで危篤となって、白い病院の壁、枕元で私を膝に抱きながら、下を向いたまま黙って涙を流すだけの父…。子ども心にも話をしてはいけないのだ、そして、母に絶対触っては駄目(お腹が痛いから)と言われていたので、だた父のひざの間で、じっと立っていた。その耳に、後ろの方にいた、父の長兄嫁の、「あんた(父に言っている)ほんと、疫病神のとんでもない嫁をもらったね。これからどうするの!こんな小さい子、二人、どうするの!」との、叫び声が聞こえ、普段から「鬼のような」伯母と思っていた、その顔は見なくても、「山姥か般若」のような顔だと想像がつきました。
その声で、触ってはいけないと言われていた、母親のおなかを、「おかあさん、おかあさん」と思いきり揺さぶったのです。
母はその時、綺麗な小川が流れ、そのわきには綺麗な花が咲き、向こう側に懐かしい顔があって、向こうから呼んでいて、そっちにふらふら歩き始め、水が冷たくて気持ちよくて、渡ろうと思っていたら、「おかあさん、おかあさん」と呼ばれ、「そうだ、私、あっちに行ってはいけないんだ、よしこが待ってる。」と思って立ち止ったそうです。
私がお腹を揺さぶったのがよかったのかどうか、とにかく天国に行きかけていた母親は、口からどろっとしたものを吐き出し、生き返ったのです。(この話は以前からのお付き合いのある方には、何度目かのお話ですがm(__)m)
今考えてみると、私たち一家が遠く離れた静岡の地にやってきたのは、それから2年もしないうちだったと思います。もしかしたら1年ぐらいかもしれません。
母親が、15年前に亡くなった実家の父を、どうしても故郷のお墓に入れたくなかったのも、なぜ、静岡に出てきたのかも、少しわかったような気がします。
従兄弟(今回の亡くなった伯父の息子たち)達も「若いころの親父の事を全く知らないので(考えてみもしなかった)もし、知っている人がいたら教えてほしい」と言っていたので、私は母親から聞いていた伯父さんの子どもの頃腕白で困った話を聞いているよと、具体的な話は母親にしてもらったのですが、従兄弟は本当にびっくりしていました。とにかく、とても大人しい、寡黙な人でしたから。
若い人が皆出て行ってしまう村で、「自分は頭も悪いし、何もできないから、ここで生きる」と厳しい農作業をもくもくとやっていた人でした。彼は次男で、実は長男にあたるお兄さんはとても優秀な人で、父親の目はいつもお兄さんに行っていて、お姉さん(私から見ると伯母さんも妹(私の母親)も、邪険にされる次男がかわいそうだったそうです。頭の悪いのは俺の子ではないと言ってはばからず、お兄さんの方ばかり連れて歩いていたそうですが、そのお兄さんが戦時中に学徒動員で亡くなり、散々役立たずとののしっていた次男に「仕方なく」農家をつがせたそうです。
「俺は頭が悪いから、このぐらいしか役に立たないから」とあとをついだ伯父さんは、養蚕やタバコの葉の栽培、シイタケの栽培、こんにゃく作りに、山にこもって炭を作ったり、ほとんと自給自足の生活の為、家畜も育て、よく働いて(伯母さんも)よく働いて、一生を山奥の家で過ごしました。
お墓も家の裏山に以前はそのまま土葬で、おばあちゃんから、普通の埋葬(お骨での)になり、伯父さんがその時はひとりで四九日に葬ったそうです。(法事は山を下りて行ったため)今回伯父さんのお骨を納めるのに、そのお墓の石を開けるのにとても大変でした。
「これを親父はたった一人でやったんだな…」
「自分では何も役に立たない、なんて言ってたけど、すごいな…」
回りもみんな山を下りている人ばかり。
「すごいよな、親父さん。ここでちゃんと、親を送り、家を守ったんだもんな…。」
「第一、ここで暮らすってことがすごいよな…」
体も小さな、そして、親からは何も期待されずに、押し付けられてのここでの生活。他の人にはできない、すごい、一生だったよね。