曲がり角で 迷いながら

自分も家族も人生の曲がり角に。戸惑いの中の日々を迷いうろついています。

気が付けば年末

2022年12月31日 | 冠婚葬祭

あっという間にもう大晦日になってしまいました。

あまりアップも出来ず、内容も今一つのブログ読んでいただきありがとうございます。

いつもは年末年始は本当にお正月なんてなければいいのにと思うような慌ただしさですが、Bこさんの亡くなった後の色々は置いておいて、自分の思う時間に出かけられるようになったので、今年の年末は結婚して40年経って初めて、私から見ると義理の仲の人たちは来ない静かなお正月ですし、手は出さないが口は大いに出すB子さんがいないので、精神的にもとても穏やかな年末になりました。

まあ、そんなわけで片づけがちょっと一段落した時、あまりに空が青かったので、ふらっと富士山を見に行ってきました。

本当にめったに見られないような雲のない富士山で、久しぶりに青い空と富士山と富士川を眺めてきました。

うまくつながって写真が載せられるかわかりませんが、2枚続きの富士山をどうぞ。

  

 


Bこさんの葬儀までのあれこれ1

2022年12月28日 | 冠婚葬祭

オット母96才。

ついに最後の時を迎え、さあどうするか?

どうするかと言うのは、葬儀場の安置所にそのまま運ぶのか、自宅に帰るのか?

オット BこさんのオットGオさんの時のように、安置所で預かってもらう。

    メリット ご遺体は家にはないので、家は特別何かする必要はない。

    デメリット お参りに安置所まで出向いてもらう事になる。自分たちもBこさんのそばにいることは出来ない。自宅にも祭壇は必要になる。

オットはとにかく面倒な事はしたくないという様子でしたが、おじいちゃんの時は安置所と、会場が自宅から離れていて、お参りの人が見える度、そちらに案内しなくてはならず、また、おじいちゃんも文字通りドライアイスでガッチガチにされて、冷たくなって、そこにひとり3日でしたか?4日でしたか?お通夜まで安置されていて、ひとり寂しくいるのがなんともかわいそうだったし、おばあちゃんは自宅に帰りたがっていたので、おじいちゃんのいる仏間に置いてやったらどうか?とヨメの私。

葬儀屋さんが来てから決めようと私は言うのですが、オットは「家に連れた返ったら面倒だ!」とイライラしている。

葬儀屋さんに電話をしてから25分ほどで担当者が到着。

病院のロビーで相談。

何件かある葬儀会場に併設の安置所が一杯で、遠方になり、なおかつ葬儀場はまた別になる可能性が高いことから、一旦自宅に搬送となりました。

その後の事は、また別の担当者が来て相談と言う事で、取りあえずの搬送ですが、Bこさんを安置するのに今オットが寝室として使っている、玄関わきの部屋しかありません。

とりあえず部屋の中のものを移動させ、Bこさんを寝かす布団!Bこさん奥の部屋でベットだったので、ちょっと汚れてますが以前使っていた布団を引きずり出して、その上に。

枕祭壇を作ってもらって、そこに、個人の使っていたお茶碗に山盛りにご飯を盛り、使っていたお箸を立てると、朝ご飯用のご飯を炊いておいてよかった!

Bこさんを寝かせた所で、一旦担当者は帰り、また、Bこさんを整えるための人が来てくれて、更に葬儀一式の相談に10時に来ると。その間にお寺に連絡をするようにとの事で、8時になるのを待ってお寺には連絡。

もちろん、その前には近い親戚には連絡をしました。義弟には亡くなった直後に連絡をしてあったので、朝1番の新幹線で駆けつけてくれました。

既に亡くなってから数時間ですが、ほぼ徹夜の状態なので、ちっとも頭が回りません。けれども、実際にはこれからが長い長い一日になるんですよね~。なんでこう言うものって慌ただしくやらなくっちゃいけないんだろうかと思ってしまう(いや、もちろんのんびりはしてられないってことはわかってますが、何とかならないんですかねえ~~)よし子がお送りしました。


Bこさん、転院後の最後の時を迎えるまで

2022年12月24日 | 高齢者

オット母96才。歩行は不自由ではあったものの、自宅で悠々自適な日々を暮らしていたオット母Bこさん。高血圧や胃腸の薬は常用していたものの、脊柱管狭窄症や背中の曲がりはひどくはなってきていたものの、いわゆる異常があったわけでもなく、「おしっこが出ない」だの、血尿が出たとか騒いでも何度検査しても異常がなかったBこさんですが、早朝の転倒以降「坂道を転げ落ちるように」どころか「真っ逆さまに落ちていく」感じで、終末期の宣言を受けてしまいました。でも、面会が叶わなかった為、その実感はなく、療養型病院へ転院の時もいつものように、オットに「ああしろ、こうしろ。そうじゃない。ああだ、こうだ。」と指示しまくっていたので、オットも私はもちろん、義弟に至っては何度もBこさんが危ないなんて言われていたので、まだ今度もかと思っていたのではないかと思います。

久しぶりの面会の時の様子からすると、お正月は迎えられないだろうなと、あわせてくれると言うときに義弟夫婦が来てくれればと思っていましたが、なかなか面会に来ず、やっと義弟が面会に来たのは亡くなる2日前でした。

もう、全く食事がとれない。経鼻経管栄養も誤嚥してしまうため出来ない。もちろん、胃ろうは形成しないとしていたので、全く栄養補給が出来なくなっていました。

自分たちでそれを選んだのですが、それでよかったのか?入院中に胃ろうを形成してもらったほうが良かったのか?そもそも救急車を呼んで入院させてしまった事がBこさんの命を縮めてしまったのではないか?

今更そんなことを言っても仕方がないのですが、もしもコロナがなければ入院と言う事態にはならなかったかもしれないとも思います。Bこさんの場合発熱があったため、丁度掛かりつけ医が休診だったので、別の病院に診察をお願いしたら、救急車を呼んで大きい病院に行くようにとなってしまいました。

コロナがなければ、その病院も診察してくれたのではないかと思いますし、週末になってしまうためお願いした入院がこのような事態になるとは思いもしませんでした。結局何が発熱の原因かはわからないまま、何度目かの発熱で、衰弱してしまったと言う事のようです。

自然に任せる。

つまり積極的な治療をしないと言う事ですから、「食べられなくなったら、数日で死に至る。」と入院時にも念を押されましたが、すでに食べられなくなってから2週間を越えました。

義弟は火曜日しか来れないとの事で、また時間がないと言う事で、オットが駅に迎えに行き、そのまま病院に行き、うちには寄らずに帰宅しました。

Bこさんと話が出来たか聞いたら、酸素マスクをつけて、寝ていたと言うか意識がなかったようです。もう少し前に面会に来ていれば少しは話も出来たと思うのですが、なんせ、うちには寄らなかったので、義弟がどう思ったかも知るすべもなく、2日後の早朝、Bこさんは旅立ちました。

何度か、看護師さんに「家に帰るからタクシーを呼んだから、タクシーが来たら教えてください。」と言っていたというBこさん。

オットはGオさんと同じく(Gオさんは、Bこさん夫=オット父)葬儀場の安置所で預かってもらうと、言い張りましたが、うちに帰りたかったんだから、家に連れてきてあげようよ、と嫌がるオットを説得して自宅に連れてきました。

Gオさんの時にはやはり早朝に亡くなりそのまま、葬儀場に安置してもらい、そのまま、数時間、葬儀場ロビーでの打合せで拘束されて、夕方になって家に帰ってからもその時には義弟1家も駆けつけていたので、休む間はなく、そのまま私達夫婦はお寺の方に出向くという、大変な思いをしたのですが、Bこさんも自宅に帰ってきましたが、私たちも自宅にいたほうが多少でも楽です。

Bこさんは兄弟が多くみんな近隣にいるので、入れ代わり立ち代わりお参りに来てくれましたが、今回はコロナ禍と言う事で、お茶も何も出さずにお参りだけして頂きました。義弟一家は通夜葬式に来るとの事で、葬儀葬祭についてはこちらにお任せで、との事で、いいか悪いか(いや、はっきり言っていなくてよかった)私たち夫婦だけで日程なども決めることが出来ました。

とはいえ、全く何もなかったかと言うとそんなことはなく、やはり嵐は嵐です。Bこさんの甥で口出しをしてくる人もおり、はっきり言ってその人が居なければ平和?だったかと。まあねえ、どこにでもいますよね。そういう人。

Bこさんは、連れて帰って来た時には、骨川筋衛門で、ほおも尋常でないこけ方でしたので、入院直前に遊びに来ていた私のムスメ家族、ムスコ家族は、元気がおばあちゃんが文字通り変わり果てた姿になって帰って来たので、ショックを受けていました。高齢でいつ何があっても不思議ではないのに、それでも、やはり、哀しみは尽きません。

葬儀葬祭に関する諸々は次回に。


Bこさん、転院後の様子2

2022年12月18日 | 高齢者

Bこさん、転院後の様子1の続きです。

思いがけず緊急病棟への入院から療養型病院へ転院するまで40日、転院してから2週間がたった時(その時は病院とはいえ終の棲家となる。一応目標としては自宅にかえるがあるが、現実的にはここで人生の終了を迎えることとなると言い渡されている)また発熱し、なかなか解熱しないので、食欲もなく、いわゆる弱ってきた状態で、年齢から言ってもいつ何があるかわからないので、今のうちに合わせたい人がいるなら面会を許すという連絡がありました。と言っても、もちろん子どもはだめ、県外の人は駄目と言う事で、とりあえず私たち夫婦での面会を申し込みました。

看護師室すぐ横の2人部屋に移動していたBこさん。

私とは6週間ぶりの対面。オットとは転院時以来です。

入院時の様子とは一転、枕元に記名がなければBこさんとは認識できない姿となっていました。

入れ歯を外してしまっていることも原因の一つですが、容貌が全く違っていて、顎は昔の半分、髪は汚れて頭にへばりつき、眼を大きく見開き天井を向いてにらんでいる状態。そして骨皮だけになった両手でベットの柵をぐっと掴んたまま離そうとしません。

呼び掛けてもこちらがわからないのか、耳が聞こえないからか、病院側が言うと通り認知機能が落ちたためか、天井をにらんだまま反応がありませんでした。

何度目かの体を揺さぶりながらの呼びかけに、ちらっとこちらを見るだけでまたすぐに上を向き、「苦しい?痛いところはある?」にやっと、

「痛くなああ~い。くるしくなあああ~い。」と天井を向いたまま、うなるように答えました。

その声も本当にBこさん?と思うような低いうなり声で、今でも、その時のうなり声や容貌が目に浮かんできます。

10分間の面会が終わり、病院側からの説明がありましたが、血圧の上下の変動が大きく、起こすと血圧が下がってしまうので、今までベットを挙げた状態でいたものを平らにしているので、ああやって柵をつかんでいるのだろうとの事でした。

再度義弟の面会が出来ないかと聞きましたが、県外はとにかくダメと言う事でした。ただ、私たちは午後であれば10分間の面会は出来るとの事で、時々面会に行きました。

次に面会した時には、清拭をしてもらって、髪も体もきれいになって、前回のように天井をにらんでいると言うような状態ではなく、普通に横になっているが、ずっとうつらうつらしている状態でした。

落ち着いたように見えたその後、またBこさん、発熱で食事をとれなくなり、尿が出にくい、血圧が下がったままの状態が続いているので、県外の義弟達の面会も許可すると言う連絡が来ました。

私とすると、すぐ来てほしいと思ったのですが、結局「予定があった」とかで面会に来たのはその連絡があってから10日後でした。実子である義弟のみの面会となります(義弟の妻、つまり次男のヨメはBこさんのひ孫を連れてきた2年前からこちらには来ていない)。

義弟夫婦はそんなに忙しいのか?んな訳はありません。もう義弟はリタイアしていますし、その妻義妹は毎日何とか教室だのフィットネスなど出かけるのに忙しい、なにせ子ども達に迷惑を掛けないように努力の毎日だそうで( ̄▽ ̄;)Bこさんの様子を見に来る暇はないそうです。

オットも、あまりBこさんがいよいよになったと言う事がピンと来ておらす、「忙しいだってさ」で済ませておりますので、私がとやかく言う事ではないので、黙っておりました。

Bこさん次男=義弟が来た時の様子はまた、次回。

それでいいのか(・・?のよしこがお送りしました。


Bこさん、転院後の様子1

2022年12月06日 | 高齢者

オット母96才、先日天寿を全うしましたが、思いがけずの入院からまさかの療養型病院への転院の記録です。

コロナ禍であることから、思いがけず入院したBこさんとはヨメである私は対面は出来ないまま、車いすで介護タクシーで「療養型病院」への転院をしました。

その時オットが受けた説明では、もう自宅に戻ることは出来ないとの事で、もしかしたら在宅介護が続くかと思って介護用品なども支払いは停止にしてもらったものの、借りていた介護用品ももう使用することはないと言う事で、介護用品の会社との契約も完全に解除し、引き取りをお願いしました。

考えてみればBこさんのオットG夫さんが、介護が必要になった時に一緒に介護手続きを取ったBこさんは足掛け12年、その会社との付き合いがありました。

デイサービスの方も途中からの利用はしましたが、なかなか行きたがらなかったので、唯一ずっとお付き合いがあったのはこの介護用品の会社でした。

玄関、トイレ、Bこさんの自室には様々な介護用品、また、最近では車いすやカートなども借りていましたので、それらを返すと、家の中はちょっとガランとした感じに。広々とは違う、寂しい感じがしました。

車椅子で段差を乗り越えるためにあちこち私自身が張り付けたものもあり、それらも最後の方はサイズの合わないものをカッターナイフで汚く切り落としてあったので、ばりばりと剥がして元の敷居の姿に戻しました。

ダイニングテーブルや椅子も、Bこさんの移動を考えて無理やりの置き方をしていたので、元に戻し、円背の為幾つも用意してあった椅子ももう転院後は座る人もなく、無用のものとなってしまいました。

転院後は補聴器は使えず、したがって携帯電話も不要、もう買い物に行くこともないので、年会費の掛かるカードは解約、生協の会員も脱退手続きをしとと、なかなかその契約解除も本人確認が必要なので、大変な作業でした。

オットと2人きりの生活と言うのも、結婚して40年にして初めての事でしたが、ほぼほぼ引越しのような状態でしたので、落ち着く暇もない日を過ごすことになりました。

しばらくは転院後の病院からの連絡もないまま、オットも私もBこさんが在宅中には出来なかった事(例えば1日かかる病院への診察など)をしているうちに日は過ぎていき、何年もきっと療養型病院での生活が続くのだろうと覚悟していました。

近づくお正月、昨年まで(こちらで印刷して住所も要れたものを用意して)年賀状も自分で出していたけれど今年はどうするのだろうなんて思っていた時に、療養型の病院からのBこさんの体力が落ちてきたので、何があるかわからないから面会が出来るようにするので、来れたら来るようにとの連絡が入りました。

「転院後の様子2」に続きます。