いせ九条の会

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お木曳きに見る共同体の姿/山崎孝

2006-05-30 | ご投稿
私は、「いせ発『平和を守る署名』はじまりの会」に参加した帰り道、月読宮付近で渋滞に出会ってしまった。伊勢神宮内宮に向けて、磯町「慶光院曳き」を行っていて、そのために渋滞を起こしていたのです。私は野次馬根性を起こして、幸い伊勢市営駐車場が数台の空きスペースがあったので駐車、私にとっては初めての「陸曳き」を見物することにしました。

「慶光院曳き」は、お木曳きでは一番太い遷宮用材を運び、内宮正殿の扉に用いられる木材だと言うことです。慶光院という尼さんは戦国時代に中断していた遷宮を、経費を集めて百数十年振りに遷宮を再開された方です。その功績により伊勢市磯町に領地を与えられお墓も同町にあるとのことです。「慶光院曳き」は格式があるので、内宮の宇治橋の前では宮司や職員が出迎えていました。

参加者にお話を聞きました。朝6時に度会橋を出発して、用材を載せた車をとても長いロープで、とても大勢の人で引っ張ってきて、夕方の5時過ぎに内宮宇治橋手前に到着したとのことでした。なんというのんびりゆったりでしょう。更に、宇治橋手前から折り返しておはらい町を通って、遷宮のご用材加工場まで曳いてゆくということでした。

先頭車に中学生位の子供が乗り太鼓を打ち鳴らしていました。太鼓は昔から東西を問わず士気を鼓舞するために用いられています。戦争にも用いられています。同じ道具でも用い方が大切です。

用材を載せた車の高い台には、4人の小学低学年位の子供が、伊勢音頭をベースにした伊勢音頭とは少し趣きの違う唄を歌っていました。

お木曳きの人たちは、エンヤー、エンヤーとかけ声を発し、三百メートル位のとても長い2本のロープには、幼児から高齢者までの世代を問わずに男女が連なっています。二列になっていた人たちは、時折、躍動的にロープを寄せ合い、或いは離れて戯れます。

お木曳き祭りは、現代の合理的思考、スピードを最優先させて物事を運ぶこととは全く無縁の世界でした。その世界の中で、人々はゆっくり進む時間の中で、世代を結ぶ一つの共同体を作り出していました。これはとても大切なことだと思いました。

時間を合理的に使うばかりが能ではないと言う人もいます。昔の人たちは集まるにも時間を守らないのは当たり前で、昔は私の村でも「〇〇時間」といっていました。沖縄の人たちは、「沖縄時間」といって、まだこの気風を持っていると島唄歌手の大工哲弘さんは言っていました。またゆったりとした時間で人々は交歓することが大切と言っていました。沖縄の人たちは「この国が平和だと 誰が決めたの」(平和の琉歌の歌詞)と本土の人たちに問い掛けています。

戦乱で遷宮が途絶えていたように、戦争は和やかであるべき共同体に打撃を与えます。かつての日本は戦争政策で共同体を利用して人々を監視させるなど、共同体を変質させました。

竹内浩三は、腰巻を上げて人に見せて変だと言われていた女性が、出征兵士の母親が隣の人たちと一緒に表面的には喜び、わが子を見送る姿を見て、私より皆の方がよほど変だと言ったという話を聞き、女性の発言をとても愉快だと笑ったということです。軍国主義の社会の中で人間本来の心を奪われない、社会の潮流に付和雷同をしないのが竹内浩三の精神でした。

この精神を持っていたからこそ「骨をうたふ」という詩を私たちに残し、異国の戦場で母のように慕っていた姉や夢に見たであろう懐かしい伊勢と永久に別れを告げてゆきました。いや別れざるをえない戦死という運命に陥ったのでした。竹内浩三は戦争に行くのに銃でなく、戦争を自分の目で描くために、ペンがほしいと詠っています。

黒澤明監督ご自身の夢を描いた「夢」という作品では、一つは原爆投下で兵士の隊列が黒くなって消えてしまう恐ろしいシーン。終わりの方では、水車小屋の回る村が、戦争が終わった時、村人たちは村道を笛や太鼓を奏で踊りながら行進するシーンがありました。

共同体は、本来的にはこのような村人の姿であるべき、と思います。伊勢の人々は、このような姿を祭りで表現していました。

「いせ発『平和を守る署名』」はじまりの会」で挨拶された伊勢市自治体連合会会長の方は、自治体連合で憲法9条を守る署名の取り組みをしたいと発言されて、大きな拍手を受ました。平和な世の中で幼児からお年寄りまで集い、人々が和やかに交歓する素晴らしいお木曳きの行事を行うことができるよう、また、和やかな共同体を守るための決意と私は受け止めます。