いせ九条の会

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平和問題への思考は、国境を超えた視点が必要/山崎孝

2006-10-29 | ご投稿
10月27日付け朝日新聞「天声人語」より 眼下に、戦後の混乱したウィーンの街が広がる。遊園地の遊覧者の中で、男二人が相対している。粗悪な密造ペニシリンの売人になったハリーに旧友マーチンスが問う。「子供の病院へ行って、君のー犠牲者を一人でも見たことがあるのか」。キャロル・リード監督の「第三の男」の名場面の一つだ▼ハリーは、観覧車の下の方に虫のように小さく見える人々を指して言う。「あの点の一つが動かなくなったら――永久にだな――君は本当にかわいそうだと思うかい」(『グレアム・グリーン全集』早川書房)▼軍事史研究家の前田哲男さんは、この場面を、第二次大戦の「戦略爆撃」と重ね合わせて述べている。「空中高く他者への生殺与奪樺を保有することになった時代の不条理を鮮やかに描き出した」(新訂版『戦略爆撃の思想』凱風社)▼20世紀の初頭に生まれた飛行機が無差別爆撃に使われ、おびただしい市民が殺されてきた。独軍によるスペイン・ゲルニカへの爆撃から、旧日本軍による中国の重慶、連合国側による独・ドレスデン、日本へのじゅうたん爆撃、そして原爆投下。点のような人、あるいは点にすら見えない遠い相手への爆撃は、戦後もベトナムやイラクなどで続いた▼1938年から5年に及んだ重慶への爆撃の責任を問う裁判が東京地裁で始まった。原告の言葉が重い。「無差別爆撃は私に、一生続く身体と精神に傷を与えました」▼無差別爆撃の傷は、日本にも深く残っている。人間を単なる「点」と見た時代を省み、その実相を未来のために記憶したい。(以上)

★10月20日付け朝日新聞より【「政治家、人々殺し続ける」】「硫黄島」イーストウッド監督 「ずっと前から、そして今も、人々は政治家のために殺されている」――。太平洋戦争末期の硫黄島攻防戦(1945年2~3月)を描いた米国映画「父親たちの星条旗」の公開を前に、監督のクリント・イーストウッド氏(76)が19日付の仏紙ルモンドに自身の戦争観を語った。

「硫黄島で戦死した米兵は平均19歳。15歳もいた」。監督は当時15歳。4年後に徴兵されたが、朝鮮戦争は(50~53年)には行かず、故郷カルフォルニアで軍の水泳指導員などを務めた。続くベトナム戦争についても「若者を地獄に送っただけ」と距離を置く。

「米国が今ほど分断されたことはない。私はイラクヘの介入は優先課題ではなかったと考える側だ」と、現ブッシュ政権の対応を批判する。

「政治家たちは最前線にいる者の運命より、自らのちっぽけな権力を行使し、保持することに関心がある」と厳しい。

硫黄島の高地に星条旗を立てる兵士の写真は、当時の米政府によって戦費調達キャンペーンに使われた。だが「真実」は別にあった。兵士たちの運命をたどる「父親たちの星条旗」は、日本側の視点で措いた「硫黄島からの手紙」

(主演・渡辺謙、12月公開)との2部作で制作された。(以上)(私は硫黄島の戦いを描いたNHKの番組をブログで紹介しています)

★京都造形芸術大学学長の千住博氏は「芸術と教養」という講演の中で、芸術とは作り手が、自分のイマジネーションを、何とかして他人に伝えたいと思う心、「オレの叫びを聞いてくれ」「私の歌を聞いてくれ」と思う心が芸術なのです。芸術の究極は「平和です」。他者同士がお互いを理解し合い、仲良くやるために存在するのです。相手に伝えようとしていることに対して、まず相手の話を聞く。こんなことをしたらどうなるんだろうと考えてみる。これだけのことがこの時代にどれだけ大切か。きっとこの発想が、教養とする考え方の柱になるのではないかと思っている(講演は10月28日付け朝日新聞参考)、述べています。

国や民族が違っても人間は、同じような感性や理解力をもっています。なぜなら音楽、映画、小説、哲学、絵画など芸術は世界的な規模で愛される作品が数多く存在することがそれを証明しています。平和の問題は、国家や民族を超えた視点で捉えなければならないと思います。

10月27日、自民党中川政調会長はワシントンでの記者会見で、核攻撃を受けるような「事態が起こらないための一つとして核の議論がある」と核抑止力論の類の意見を述べました。相手を敵視するばかりで、安全保障を最大の無差別攻撃兵器に依拠する発想は、人間を単なる「点」としか見ない考えが根本にあることは間違いなさそうです。