いせ九条の会

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理性とヒューマニズムにもとづく連帯/山崎孝

2008-03-25 | ご投稿
「ジャーナリスト」600号 JCJ設立の初心に還り、未来へ!

(2008年3月25日のジャーナリスト会議のホームページより)

【大先輩が語る〝あのころ〟吉野源三郎氏らの活躍で〝連帯〟求めた草創期】橋本 進 氏(元中央公論編集者、前JCJ代表委員)

「ジャーナリスト」が600号を迎えたと聞くと、あらためて55年2月19日東洋経済講堂でのJCJ創立大会の熱気あふれる雰囲気が思い出される。レッド・パージ、日本ジャーナリスト連盟(ジ連)消滅という〝冬の時代〟をくぐり抜けてきた仲間たちの顔は、未来への展望と決意で明るく輝いていた。

JCJ初代議長の吉野源三郎氏は、戦争に有効な批判をなし得なかったジャーナリストの在り方への反省に立って、分散・孤立から連帯・交流への道を熱っぽく説いておられた。戦時下、3度の検挙の後、日中戦争開始の年に反戦の志を秘めながら人間同士のいがみ合いでなく、理性とヒューマニズムにもとづく連帯を訴えた(『君たちはどう生きるか』)氏は、敗戦後、ジ連創立に力をつくした。ジャーナリズムの社会責任と、それを果たすべきジャーナリストの権利確保を考える氏は、岩波労組初代委員長として内容豊かな労働協約締結に成功、印刷出版書記長、産別幹事の責務もひきうけた(確かな労働運動は活発な職能活動を保証する)。戦後の冬の時代には、プレスの会、知識人の会で連帯を保った。

戦時下最大の言論弾圧・横浜事件の被害者となったジャーナリストの多くは、狂気が支配した戦時体制下、理性と良識の連帯を求めた人々だった。日本編集者会(40年)を作った小林英三郎氏(改造)、渡辺潔氏、美作太郎氏(日本評論)らは共産主義運動を行ったとして検挙された。戦後、美作氏はジ連幹事長、渡辺氏、ついで小林氏は事務局長として業績を残し、美作氏はひきつづきJCJで活躍された。 産業の枠を越え、企業の壁を越えての連帯をめざしつつも、その活動基盤を支部に置くのが、初期JCJの方針であった。共同通信支部、朝日支部、とくに前者の活動には目を見張らされた。発足以来、粘り強い活動を重ね、今日機関紙100号を達成した日経支部にはお祝いと称賛の言葉をおくりたい。

レッド・パージのような暴力的形態ではないが、〝商業主義的経営体制〟等の要因で、いま再びジャーナリストの孤立・分散が余儀なくされ、読者・視聴者のアトム化も進行している。マスコミ総体が権力迎合度を強めている今日、志あるジャーナリストの連帯をどう築き上げ、広げていくか、私たちは工夫をこらして課題に応えていかねばならない。(以上)

【真実とヒューマニズムを忘れた日本の大新聞】

(2008年3月22日付「しんぶん赤旗」の論評を抜粋)

アメリカが戦争を始め日本が支持したこと自体は、やむをえなかったとして弁護する論調が依然として残っています。代表的なのは「読売」十七日付社説で、大量破壊兵器がなかったのならそれを挙証すれば戦争を回避できたはずなのに、「それをしなかったフセイン政権の側に、戦争を招いた非がある」、国連安保理が機能していなかったのだから、米英が武力行使に踏み切り日本が支持したのは「やむを得ない選択だった」というのがその言い分です。「大義なき戦争」という判断は、「あまりに短絡的」という「産経」二十一日付主張もほぼ同じ立場です。

 一方的に戦争を始めたアメリカの肩を持って、攻撃された方が悪いというのは、侵略する側の論理です。

 実際には、国連の監視検証査察委員会が大量破壊兵器の査察を継続することで事態を解決する見通しを示し、国連安保理はアメリカなどの武力行使容認の要求を拒否していたのに、一方的に開戦に踏み切ったのはアメリカとその「有志連合」です。悪いのはフセインだ、開戦はやむをえなかったと弁護するのは、歴史の事実に反します。

 なぜ五年もの長きにわたって十数万もの大軍がイラクに駐留し大きな犠牲を生んでも、治安の維持も復興の見通しも立たないのか。それは戦争そのものが大義のない無法な戦争でイラク国民の反発を買っているからです。戦争そのものが間違っていたからこそ、暴力の応酬が繰り返されるのです。