伊佐子のPetit Diary

何についても何の素養もない伊佐子の手前勝手な言いたい放題

伝統工芸士

2016年07月07日 | 京都
ブログのトップページの形が崩れていた。
なぜか突然そうなって、元に戻らない。
トップページだけで、次のページはどうもないみたいだ。
いろいろ試したが、無駄で、
なるべく枠内に文字が入るようにするくらいしかできない。
治しているうちに疲れた。

なんでこうなった…

・・・・・・・・・・・・・・・


父のことについて、昔自分のサイトに良く書いていたけれど、
もう一度ブログにも書こうと思った。

(註: あくまで自分の主観だけなので、
正確な事実ではないかもしれませんので、
間違いがありましたら申し訳ありません。) 


父は伝統工芸士だった。

今でも、表彰状が4枚、家に飾ってある。
れいれいしく、額を買って来て父が飾った。

それらは伝統工芸士に認定するというもの、
蜷川虎三知事からの表彰状、
荒巻貞一知事からの表彰状など。

どれも、長年にわたり…その技術向上と…発展に尽力され…
などと書かれている。


伝統工芸士になるには、同業者の推薦が必要だ。

長年やっていると、そろそろ今度はあいつか、
ということになって推薦してもらえる。

そして、伝工士の総元締めみたいな?偉い人の前で、
ちょっとした実演をして、それに受かると認定してもらえる。

同業者が推薦した時点で、
まあ認定はしてもらえることになっている。

推薦は、あうんの呼吸みたいなものだから、
伝統工芸をやり続けていると、
まあ大体の人はある程度年数を続けていたらもらえるものだ。


認定されると、楯がもらえる。
伝統工芸士のロゴマークと、自分の名前が刻まれているもの。

今も、元の仕事部屋に飾ってある。

仕事は父と母と二人でやっていた。

母は家事と育児をこなしながらだが、
父の仕事を手伝い、
殆どの時間を二人で向き合って仕事していた。

でも、母に伝統工芸士の認定はされない。
手伝いだから。
それは、少し可哀想だった。


仕事机は大工さんの特注だった。
そんな机は市販されていなかったから。

3つあり、一つが父、一つが母、一つは予備で、
父が亡くなってから同業者がひとつ、持って行った。

今、家には、2つのその仕事机が残ったままだ。
その一つで私はパソコンを使っている。


そのほかにも仕事道具に特注は多かった。
みな市販されていないから、作ってもらうのだ。

自分で作っていたのもある。

例えば、糊だ。
和紙と和紙をくっつける、糊。

糊を自分でつくる。

糊の粉を買って来て、
ご飯を炊くお釜に水を大量に入れて、
火をつけて混ぜる。
長い間、台所に立ったまま、混ぜ続ける。

よほど経ったころ、
そのどろどろになったやつをすり鉢に入れ替え、
すりこぎで混ぜる。

このすり鉢を混ぜるたびに動かないように、
持っておくのが私の役目だった。

よく手伝わされた。


蜷川知事の時代、伝統工芸士は税制が優遇されていた。

というか、
わりと伝工士はおおざっぱに扱ってもらっていた。

西陣の、西陣織職人の人たちに
共産党支持者が多いのはそういう理由からだったと思う。


自民党の知事になってから、伝統工芸士は、急に狙われ始めた。

この年はこの工芸人たち、次の年はこいつら、という感じで、
ことごとく税務署の監査を受けた。

うちの父もやられ、青色申告をすることになった。

それは当然のことだったのだが、
京都の伝統工芸士たちは、優遇されていたから、
発展できたとも言えたのじゃないかとも思う。


父は、問屋から材料を渡され、それを加工する仕事だ。

自分で必要なものを買うわけではない。
だから、必要経費を計上することが出来なかった。

ほかの伝統工芸士なら、
必要経費である程度融通をすることも出来た。
だけど、うちはそれも出来なかった。

だから正直に売り上げを計上するしかなかった。
いや、それが当然のことなのだけど。


だけど、そのことでずいぶん父は困っていた。

これまでは大雑把な申告でよかったのが、
全部正確に書いて提出しなければならない。

父は税理士に任せたが、零細企業にとっては、
痛い出来事だった。

(荒巻知事からも表彰されてたのだけど)



伝統工芸士というのは全国にいて、
そういう仕事に携わっている人々に対して、
全国的に、いろいろな敬章が行われる。

「現代の名工」などと言う名称のものも、
毎年選ばれる。

京都にもそういう制度があり、「京の名工」という名称で、
それに選ばれると新聞に名前が載る。

これに選ばれるためにはどういうシステムで、
というのは忘れたが、
とにかくある程度、仕事を続けていれば選ばれる。


京都に伝統工芸士は多いから、名工も沢山いる。

名工たちの展覧会があり、
そこで作品を展示してもらう機会もある。

父もそれに選ばれた。

とにかく、「京の名工」という人になったのだった。



晩年になってから、地方のものすごくマイナーな社内報とか、
会社の宣伝雑誌とかのインタビューや取材を受ける機会が、
たびたびあった。


その中のひとつで父は、
自分が仕事を出来るのはすべて女房のおかげ、
女房がいなくては何もできない、
などと答えていた。

家の中ではそんなことを言ったことがなかったので、
その記事を見て、ひどく驚いた。

父がそんなに母に感謝しているとは知らなかった。


また、父は自分の仕事は、一生が勉強、とも言っていた。

満足のいくものをまだ作れたことがない。
これから研鑽を重ねて、
少しでもよいものを作らなければならない、
というふうなことも、インタビューの中で言っていた。


こんなことも、家では聞いたことがなかったので、
父が自分の仕事に対してどう思っているのか、
初めて知った。


この時、ああ、父も、本当に職人さんなんだなあと、思った。


職人は、必ず「一生が勉強」と言う。

職人の仕事には終わりはない。

これで完璧と思っても、
それはまだ完璧ではないかもしれなく、
その先にもっと良いものが出来るかもしれない。

職人の仕事というのは、そういうことを積み重ねて、
死ぬまで続けるものなのだろう。
定年というものがない。

どこまでも、一生続くものなのだ。


父の仕事は、分業制の、その一部で、いわば歯車のひとつ。

単なる加工業で、西陣織や、友禅染職人みたいな、
立派な名のある、有名作家なんかではもちろんない。

無名の、名もない単なる加工職人。

だけども、一生が勉強、という、
そういう立場には変わりはない。


私は、名もない市井の職人である父を、誇りに、思う。



母は、結婚してから、毎日夜中の12時まで働かされた。
その合間に家事をした。

子供が生まれてからは、家事と子育てに追われながら、
12時まで仕事をした。

授乳の時には、少しでも時間が長引くと、早く仕事に戻れ、
といって父にどやされたと言う。

父は仕事にはとても厳しい人だった。


母は、自分がそのような苦労をしたから、
自分の娘たちには、絶対に、あとを継がせない、
と固く決心していたようだ。

母は、娘をふつうのサラリーマンに嫁がせようと、
絶対に決めていた。


だから、私は父の仕事に関しては、何一つ、ノータッチ。

子供のころに、誰にでも出来る「中ざし」という仕事などを
手伝ったことはあったけれど、
本格的な仕事を教わろうというふうには、
全然思いもしなかった。



父が亡くなったあと、だいぶ経って、
私が職を失った時、母がふと言った。

あんた、扇子の仕事をしてみるか。

私は、泣いた。

なぜ、今さら。

そんなことなら、もっと始めから、
父が健在だったころから、
少しでも教えておいてくれたらよかったのに。

だけど、母は私を結婚させるつもりだったし、
私は料理がきらいで結婚をしなかったようなものだから、
歯車がかみ合わなかった。

そうとしかもう今は言いようがない。


私に出来たことといえば、三本骨を折るだけ。

三本骨とは、山がたった三つだけの、飾り扇のこと。


私が職を失ってだいぶ経ったころ、
まだうちの家のことを忘れないでいてくれた問屋さんが、
仕事を持って来てくれた。

それが三本骨。

そんなの、誰だって出来るじゃないか!


私は、父が使っていた机の上で、父が使っていた道具を使って、
それをした。

父の使っていた昔の道具はそのまま残っていた。

やがて問屋さんからの仕事も途絶えた。


情けないね。

せっかく伝統工芸士の家に生まれながら。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ここまで書いて、私は伝統工芸士の仕事が、
何かとんでもなくすごい、
ほかの普通の人の職業に比べて
すごいものだと考えていたことが自分で分かった。

完全に、普通の仕事の人を、見下していた。

仕事に優劣など、ないのにな。




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