伊佐子のPetit Diary

何についても何の素養もない伊佐子の手前勝手な言いたい放題

水底の歌

2009年12月16日 | 本・書評
不眠症になり、夜、寝られないので
退屈で難解な本を読めば眠くなるかと思い、
ほっておいた梅原猛の「水底の歌」と言うのを読んでみることにした。

「隠された十字架」にハマった時に、
勢いで上巻だけ買い、
1、2行読んで放りっぱなしだった本だ。
何だか難しそうだったので読む気にならなかったのだ。


あの本なら、絶対退屈で難しそうだから眠くなるはず、
と読み始めたらあまりにも面白くてどんどん読んでしまい、
完全に逆効果になってしまった。

上・下巻になっていて本屋で上だけ買っておいたので下巻を持っていない。
このままならあっという間に上巻を読んでしまう。
その時になって下巻がなかったら、
ものすごい禁断症状が出てしまうだろう。

下巻も手に入れておいてから読まなくては、と思い、
とりあえず読むのを一時ストップし、
下巻を手に入れるまではもっとつまらなそうな
同じ梅原猛の「神々の流竄」という本を読むことにした。
そうしたらこれもひどく面白くて読むのをやめられない。
困った困ったこまどり姉妹。





歩ける範囲で行ける本屋へ行き、
「水底の歌」の下巻を探したが、
そもそも「水底の歌」自体が置いてない。
どこへ行っても梅原猛の本では「隠された十字架」くらいしかないのだ。
前に買った時には「水底」もそのほかのものも、
新潮文庫の梅原氏のものはほとんど置いてあったのに。
何という時の流れの速さ。

そんな感慨にふけっている場合ではない。
このまま中途半端な所で読むのを止めることには耐えられない。
何とか下巻を手に入れなければ。
というわけで、楽天で探したらあっという間に見つかり、
あっという間に送って来た。
このような時にはインターネットの有り難さが身に染みる。



下巻を手に入れてご機嫌になり、安心して続きを読む。
とにかく、
始めに斉藤茂吉をけちょんけちょんにけなしている部分が面白すぎる。
「茂吉に恥をかかせるつもりはない」
とか言いながら充分に辱めている。
もし茂吉が生きていたら訴訟ものだろう。
いや、死んでいるからこそ書ける訳だろうけれど。


そもそも私は柿本人麻呂と言っても、
名前を知っているくらいで、詳しくは何も知らないし、
興味もないのだった。
それは「隠された十字架」の法隆寺も同じだ。
人麻呂? 平安時代の歌人だろうくらいに思っていた。
そうしたら実は奈良時代の人だった。


大昔に「猿丸幻視行」という推理小説は読んだのだが、
そこで「水底の歌」がネタにされているのだが
(「水底」に頼り過ぎという評価もあったくらいだ)、
すべて忘れ去ってしまった。

いろは歌が出て来て、暗号になっていて、
折口信夫が主人公ということしか覚えていない。
ほんとうに我ながらこまどり姉妹…


その推理小説を読んだ時に、
「水底」も読んでみようという気にはまったくならなかったのだから、
当時から、よっぽど梅原猛を難解で退屈と思っていたのだ。
何しろ哲学者なので…

斉藤茂吉をさんざんに攻撃しているが、
それは何も茂吉が憎くてけなしている訳ではない。
茂吉というのはひとつの例であって、
例えば有名な歌人であり、
学者でもある「権威」が言うことなら何でも正しいだろう、
何ひとつ間違いはない、すべて鵜呑みにしてしまう、
という我々の態度をこそ、梅原猛は批判しているのだと思う。


つまり、偉い人の言うことだからそれは正しい、
と思考停止してしまい、自分では何一つ確めず、
考えず、偉い人の言うことをそのまま信用してしまう。
そういう態度が、真理を追求する哲学者として我慢ならなかった。
もし、偉い人の言うことが独善的で、
独り善がりで、間違いだったとしたら?

どんな偉い人の言うことでも、
どんなに世間で常識とされていようと、
自分でまずそれが本当に正しいのか、本当のことなのかを確める、
それが我々にとって最も大事なことではないのか。
梅原猛はそう言いたかったのに違いない。


梅原氏の主張する説が正しいのかどうか、
それはむしろどうでも良く、
何百年も「常識」とされて来たことに挑戦する、
その真理の追究の態度が美しい、と思うのだ。
まだ全部は読んでいなくて頁が残っているのだが、
読み終えるのが惜しくて、なかなか読み進まない。



隠された十字架






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