京都は「源氏物語千年記」で涌きかえっている。
今年が「源氏物語」が描かれたことが確認されて千年になるそうだ。
それを記念して、あちこちでいろんな催しが行われる。
1年間ずっと行われるだろう。
そりゃもう大騒ぎさ。
私が一番心配していたことは、この催しのイメージキャラクターに、
某大河ドラマのヒロイン役だった某女優が起用されたことだった。
私は1年間、京都の町のあちこちに、
某女優のアップが写ったポスターが貼りまくられるのではないかと、
心配で心配でならなかった。
恐怖でさえあった。
1年間、それに耐えなければならないのか、とものすごく憂鬱であった。
なぜなら、某ドラマを見るにつけ、その女優がとてもぶ○いくで、
そのポスターを見るたびに顔を背けて歩かなければならないだろうと予想したからだ。
これは、
その女優の半分の容姿も持たない私が言うべきことではない。
しかし、私は少なくともポスターにアップで写ったり、
テレビに出て我が醜貌を晒すことはしていないので罪は少ないと言えるだろう。
近所の人の前を平気で歩いている、
ということの罪は深いとは言えるが。
ともあれ今の所、
京都の町にそのポスターが貼られている場面には遭遇していないので、
少しは心が安らかだ。
ただ先日NTT西日本のモデルルームに
ずらりと貼られているのを目撃してちょっと暗澹とした気分になった。
しかしそのポスターは良く出来ており、
ぶ○いくには写っておらず、多少は安心した。
なぜこの女優が源氏物語のイメージキャラに起用されたのだろう。
京都の商工会議所があまりお金がなくて、
ギャラの安い人に頼んだのか。
いや、この人は言うほどぶ○いくではないのだ。
ただ、可愛げがなく、ふてぶてしいだけけだ。
いや、フォローになってない。
まあそんなことはどうでも良い。
私は前から言っているように、「源氏物語」がきらいだ。
きらいだから読んでいない。
古典が難しくて読めなくて嫌いだから「源氏物語」が嫌いなのでは、
断じてない。
違いますとも。
あのうねうねぞべぞべした文体が苦手なだけだ。
そうですとも。
けれども最近になって、「源氏物語」は、日本人の基礎教養であり、
これを抜きにして日本の歴史や文化を語れない、
とつくづく痛感するようになった。
なぜなら博物館へ行き、雅な屏風などを鑑賞していると、
そのタイトルが「車争いの図」で、
その解説に「有名な源氏物語の一節を絵にしている」などと書かれている。
「源氏」を読んだことのない人間にはなんだこりゃである。
けれども「これは有名なあの」「名高い」という解説がついていると、
その有名なエピソードを知らない私には凄い敗北感が募る。
これくらいは、屏風を見る時には、当たり前の教養なのである。
知っていて当然、知らなければ恥ずかしい。そういうことなのだ。
私は、こと教養にかけてはものすごく負けず嫌いなのかもしれない。
「源氏物語」は、昔から屏風や絵巻の題材になり続けて来た。
「源氏物語」を読むことが、昔から日本人の国語の勉強法だった。
あの上杉謙信も「源氏」のファンだったと言う。
このように、「源氏物語」は日本人にとって生命線とも言える物語なのだ。
もはや、きらいだの知らないだの言っている場合ではないだろう。
ここは素直に負けを認めて、
何とか「源氏」に対する教養を深めなければならないと焦るこの頃であった。
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今年が「源氏物語」が描かれたことが確認されて千年になるそうだ。
それを記念して、あちこちでいろんな催しが行われる。
1年間ずっと行われるだろう。
そりゃもう大騒ぎさ。
私が一番心配していたことは、この催しのイメージキャラクターに、
某大河ドラマのヒロイン役だった某女優が起用されたことだった。
私は1年間、京都の町のあちこちに、
某女優のアップが写ったポスターが貼りまくられるのではないかと、
心配で心配でならなかった。
恐怖でさえあった。
1年間、それに耐えなければならないのか、とものすごく憂鬱であった。
なぜなら、某ドラマを見るにつけ、その女優がとてもぶ○いくで、
そのポスターを見るたびに顔を背けて歩かなければならないだろうと予想したからだ。
これは、
その女優の半分の容姿も持たない私が言うべきことではない。
しかし、私は少なくともポスターにアップで写ったり、
テレビに出て我が醜貌を晒すことはしていないので罪は少ないと言えるだろう。
近所の人の前を平気で歩いている、
ということの罪は深いとは言えるが。
ともあれ今の所、
京都の町にそのポスターが貼られている場面には遭遇していないので、
少しは心が安らかだ。
ただ先日NTT西日本のモデルルームに
ずらりと貼られているのを目撃してちょっと暗澹とした気分になった。
しかしそのポスターは良く出来ており、
ぶ○いくには写っておらず、多少は安心した。
なぜこの女優が源氏物語のイメージキャラに起用されたのだろう。
京都の商工会議所があまりお金がなくて、
ギャラの安い人に頼んだのか。
いや、この人は言うほどぶ○いくではないのだ。
ただ、可愛げがなく、ふてぶてしいだけけだ。
いや、フォローになってない。
まあそんなことはどうでも良い。
私は前から言っているように、「源氏物語」がきらいだ。
きらいだから読んでいない。
古典が難しくて読めなくて嫌いだから「源氏物語」が嫌いなのでは、
断じてない。
違いますとも。
あのうねうねぞべぞべした文体が苦手なだけだ。
そうですとも。
けれども最近になって、「源氏物語」は、日本人の基礎教養であり、
これを抜きにして日本の歴史や文化を語れない、
とつくづく痛感するようになった。
なぜなら博物館へ行き、雅な屏風などを鑑賞していると、
そのタイトルが「車争いの図」で、
その解説に「有名な源氏物語の一節を絵にしている」などと書かれている。
「源氏」を読んだことのない人間にはなんだこりゃである。
けれども「これは有名なあの」「名高い」という解説がついていると、
その有名なエピソードを知らない私には凄い敗北感が募る。
これくらいは、屏風を見る時には、当たり前の教養なのである。
知っていて当然、知らなければ恥ずかしい。そういうことなのだ。
私は、こと教養にかけてはものすごく負けず嫌いなのかもしれない。
「源氏物語」は、昔から屏風や絵巻の題材になり続けて来た。
「源氏物語」を読むことが、昔から日本人の国語の勉強法だった。
あの上杉謙信も「源氏」のファンだったと言う。
このように、「源氏物語」は日本人にとって生命線とも言える物語なのだ。
もはや、きらいだの知らないだの言っている場合ではないだろう。
ここは素直に負けを認めて、
何とか「源氏」に対する教養を深めなければならないと焦るこの頃であった。
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