静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

プリニウスの章(3) 

2017-06-08 12:03:47 | 日記

               ソーンダイク『魔術と実験科学の歴史』の抄訳                 

序文

第二章 プリニウスの博物誌

    1、科学史に占める地位

    2、実験的傾向

    3、プリニウスの魔術についての記述

    4、マギの科学

    5、プリニウスの魔術的科学

 

         第一巻 ローマ帝国                                                                                         

 

序文 

三人の偉人プリニウス、ガレヌス、プトレマイオスという偉大な三人の名は、ローマ帝国の科学の歴史の中で、きわだった地位を占めている。

彼らは、彼らに先立つ著作家や研究者の成果を利用したり批判したりしているために、われわれにとってこれらの先人がまた、その前のヘレニズム時代の科学研究のための主要な資料源となっている。彼らの多作性、広範な分野を網羅する豊かな視野、そのとらわれない自由な個性的視野によって、彼らの時代の科学的な精神や業績、その大部分は不滅であるのだが、それらについての広範な調査結果をいきいきと記述している。プリニウスは自然科学だけではなく同時に政治に携わり文学をも研究した。プトレマイオスは数学者であると同時に天文学者であり物理学者であり地理学者であった。ガレノスは医学のみならず哲学の知識があった。そのうえ、あとの二人は、科学の知識と方法のうえで最高級の独創的貢献をなした。これら三人の分野はそれぞれ異なってそれにもかかわらず、地中海をとり囲む三大陸の自然についての科学という点で共通しているということは、均質的に広がったローマ帝国の文化の特質を現すものである。

  プリニウスはアルプスの向こうのイタリアの境界にあるコモで生れた。プトレマイオスは、エジプトのどこかで生まれアレキサンドリアで仕事をした。ガレノスは小ジアのペルガモンンからやってきた。最後につけ加えるとこの三人は、アリストテレス以後、直接間接に中世にもっとも強大な影響を与えた古代の科学者だった。このように、彼らは過去・現在にわたって名声を高めているのである                                                                                                                         

 

この巻の計画 

それではわれわれの研究の最初の巻を、年代順を考えながらプリニウス、プトレマイオス、ガレノスの順にはじめよう。だが、プトレマイオスの考察では、自然科学と自然の予兆について同じような結び付きを明らかにしたセネカの『自然の問題について』<1> という著作と関連させながらすすめよう。つぎに、若干の古代応用科学とその魔術との関係についてさらにプルタルコス、アプレイウスのより多様な著作またフィロストラトゥスの『テュアナのアポロニウスの生涯』について考察しよう。魔術と神秘学に好意的な態度を示しているこれら後者の著作家たちから最後のローマ帝国における疑似神秘主義的著作、新プラトンン主義とその天文学および神秘的秘術との関係そして Aelian,Solinus,Hollapollたちの著作へとすすめる前に、迷信に対する文学的・哲学的批判についての若干の考察をおこないたい。                                                                                                                                                                                                                                                                                              

 

 

第二章 プリニウスの博物誌 

目次 

第一節科学史に占める地位

 多様な情報の集積として、古代自然科学の宝庫として、魔術のための源泉としてのわれわれの研究における重要性。プリニウスの生涯、著作、『博物誌』についての彼自身の説明。自然科学への傾倒について。科学と宗教との葛藤。プリニウスは練達した博物学者ではないこと。典拠の利用について。整理と分類の不足。無神論<懐疑論>と軽信性。古代科学の案内人。中世への影響。初期の印刷本。

第二節  実験的傾向

観察と経験の重要性「 実験(expelimentum )という用語の使用。科学的好奇心からの実験。医学上の実験。偶然的経験と神の摘発。経験によって証明された驚異。 

第三節 プリニウスの魔術についての記述

 東洋起源の魔術そのギリシアへの普及。ギリシア・ローマ世界外縁への普及、その真の源泉への理解の欠落。魔術と卜占。魔術と宗教。魔術と医学。魔術の欺瞞。魔術の犯罪。プリニウスの魔術にたいする非難の大部分は知的であること。プリニウスの無神論<懐疑論>の曖昧さ、魔術と科学の区別のつかないこと。

 第四節 マギの科学

自然の研究者としての魔術師。薬草とマギ。薬草の驚くべき効能。動物と動物の部分。その例。動物と動物の部分による魔術の儀式。動物の部分で作られた驚くべきもの。医師におけるマギ。それ以外の魔術の処方。魔術の宣言の要約。

 第五節 プリニウスの魔術的科学

 マギ僧からプリニウスの科学へ。動物の習癖。動物によって発見された薬剤。動物の嫉妬<警戒>。動物の超自然的効能。草の効能。摘み取った草。農業の魔術。石の効能。その他の鉱物・金属。人体の部分の効能。人間の唾液の効能。人間の手術<者>。医薬調合の欠如。交感魔術。動物の反感。無生物間の愛情と憎悪。生物と無生物との間の共感。治療に似たようなもの。群衆の原理。病気の魔術的転移。護符。位置と方向。時間の要素。数に関しての習慣。手術者と患者の関係。呪文。恋の魔力<魅力>と産児制限にたいする態度。プリニウスと天文学。天空による前兆。自然界における星と地球。天文学的医術。結論、プリニウスの迷信の魔術的統一。

 

『博物誌』の巻末の言葉より

   "Salve, parens rerum omnium Natura, teque nobis Qquiritium solis celebratam esse numeris omunibus tuis fave!"

 (さようなら、万物の母なる自然よ、 ローマ市民の中でただひとりあなたを賞賛 したこの私に、あなたの限りない豊かさをもって祝福を与えたまえ。)

   

 

    第一節 科学に占める位置

 

れわれの研究における重要性

 ローマ帝国の科学と結合した魔術についての考察のための、また、その結合が中世に及ぼした影響についてのよりすぐれた出発点を発見するためには、とっくの昔にわれわれはプリニウの『博物誌』を研究すべきであった。このことは、何年か前、私がローマ帝国における知性の歴史の中での魔術に関する簡単な予備的研究のために、大プリニウスの『博物誌』のある章を開いたときに、かつてなく真実に思えたのである。そこには、魔術と科学とのかなりの混乱がみられるが、プリニウスの著作の内容のより精密な分析を含めなくては、わたしの当面する仕事を包括的に、そして完全に仕上げることはできないと考える。

 プリニウスの『博物誌』は多分紀元後77年に出版され、ティトゥス帝に献呈されている。これはおそらく、古代文明に関して現存する資料のうちで、もっとも重要な唯一のものであろう。たいへん簡潔な文体で書かれたこの三七巻の書物は、きわめて多彩な情報の膨大な集積である。古代における絵画・彫刻をはじめとする各種のすばらしい芸術について、また、ローマ帝国の地理について、ローマの凱旋式、剣闘士の試合、劇場の見世物について、また古代産業における製造法、地中海での貿易、イタリアの農業、古代スペインの鉱山、ローマの貨幣鋳造、古代における物価の変動、ローマ人の高利についての考え方、不道徳に対する異教的対応、古代の飲料、古代ローマ人の宗教上の習慣、そのほかさまざまな話題について、プリニウスのそれらのすべてのなかに、人々はなにらかの興味あるものを発見することができるだろう。

 彼は、同時代の様子を描くとともに、それらの起源にさかのぼって描くという両方の傾向があった、さらにまた彼は、古代の経済的・社会的・芸術的・宗教的生活の研究者のみならず、ローマの政治的・物語り的歴史家にとっても興味ある数多くのこまごました出来事を繰りかえし述べている。多分ただひとつの項目も、研究者によって価値をおとしめられる余地は将来ともありそうにない。ただ残念なことは、この著作の、すぐ役にたつ網羅的・分析的な索引が無いことである。この作品は多分事実の集積だろうが、プリニウスはさらに、堕落したローマ社会を描いたエウナリウスの絵と彼自身の高潔な道徳規範を呈示しながら、彼の時代の奢侈と悪徳・没知性的特質にたいする鋭い指摘、おおくの道徳的考察を企図していたことをつけ加えたい。

 

古代の自然科学の宝庫として

 事実、プリニウスの題名 Naturalis  Historia  あるいはすくなくとも一般的な英訳の Natural History  は、あまりにも限られた範囲のものとしてしか批評されてこなかった。だがこの作品は「むしろ、知られているほとんどすべての存在についての、古代の知識と信念を盛り込んだ広範な百科全書である。」(1)

 プリニウス自身、序文のなかでギリシア語の encyclopedia という語でその範囲を説明している。にもかかわらず、彼の作品は基本的には文明よりは自然についての記述であり、その情報の多くは、芸術や仕事(art and bussines )は附随的なものという立場で考察されている。この書物のほとんどは、水生動物、外国の樹木、森林の樹木からとれる薬剤、金属の性質といったような題がつけられている。

 序文とそれ以後の各巻の内容の一覧と典拠した著作家の名簿を含む導入的な第一巻につづく第二巻は、宇宙・天体・気象そして地震や潮汐のような、地表を形成している陸や海における主要な運動を記述している。地理にあてられた四つの巻のあと、第七巻は人間と人類による発明を扱っている。それにつづく四つの巻は・陸棲・水棲動物、鳥類、昆虫、そのあとの十六の巻は草木、樹木、ブドウ酒その他の植物、そしてそれらからつくられた薬剤に関するものである。五つの巻は、人体の部分を含めて動物から得られた薬剤について論じ、最後の五巻は金属、鉱物、そしてそれを用いた芸術を扱っている。このように、プリニウスの主要部分は自然科学に関するものであり、したがって、もし彼の著作がひとつの豊富な歴史的情報の宝庫だとすれば、                    ドミティウス・ピソが言うように、書物というよりは宝庫というべきである。そして                                    われわれのように直接科学史にたずさわっているものにとっては、この書が豊かな宝庫であることをよりはっきりと証明するものである。                                                                                           

 

魔術の源泉として

 『博物誌』は情報と偽情報の巨大な貯蔵所である。というのは、プリニウスの軽信性と、識別力の欠如が、歴史的事実や古代科学の小麦とともに、伝説や魔術というソラ豆もいっしょに彼の大きな穀物倉庫の中に取り込んでしまったからである。このことが多分、他の研究者たちにその記述を受け入れることを警戒させたのだろう。だがそのことこそがわれわれの目的にとって価値を増大させているのである。多分、古代科学の宝庫としてよりも、古代の誤謬の収集としての方がより価値があるのではないか。魔術の多様な種類をあげるとともにその特質のほとんどについて例証している。さらにそのうえに、プリニウスはしばしばマギ僧や魔術師たちに言及しており、また、第三十巻の第一章では相当の長さにわたって、とくに「魔術」について論じている。魔術を扱った古代のあらゆる著作家の作品のなかで、もっとも重要な文章のひとつである。

                                                                          プリニウスの生涯

 大プリニウスは、『博物誌』の中の彼自の説明や、養子にした彼の甥の小プリニウスが大プリニウスに関して書いた二通の手紙によれば、ローマの上流階級の出身者の一般的な経歴である軍隊・法廷弁論・公務の仕事を勤めあげ、また生活の相当部分を皇帝の側近として送った。彼は地中海世界の各地方、スペイン、アフリカ、ギリシア、エジプトを旅行し、ゲルマニアで戦った。彼が、イタリアの西海岸の艦隊の責任を負っていたとき、ウェスウィウス火山の爆発に伴うガスと蒸気の危険から住民を救出しようとして窒息し、五十六歳の生涯を閉じた。

 『博物誌』はプリニウスの著作では唯一の現存するものであるが、その他の著作の題名は伝えられており、それは、彼の偉大な文筆活動上の勤勉さとその関心の広さを示すのに役立っている。彼は、『騎兵の投槍の使用法について』、友人の『ポンポニウスの伝記』、二十巻におよぶ『ゲルマニアでのローマ人の戦記』、『学生』と名づけられたもっと長い雄弁術の本、『疑わしい言葉』と題した八巻の文法的・言語学的著作、アウフディウス・バッススの『歴史の続編』の三十一巻を書いた。

 だが、ティトゥスへの『博物誌』の献辞の中で彼は、日中は公的な仕事にとられて夜だけが文筆活動の時間であったことを述べている。この記述は、彼の甥が手紙の中で、プリニウスが深夜と夜明け前にロウソクの明かりのもとで勉強しているありさまを描いていることによって裏づけられている。小プリニウスはいくつかの具体的事例をあげて、彼の伯父が、ほんのわずかな余暇をもどんなに大切に有効に使ったかということを書きとめている。彼は、横になっているときも後述したり本を読ませたりし、また旅行のときは常に書物と書き台を持った秘書を伴うのがきまりであった。気候が悪いときには、書記は凍えて字が書けなくなるのを防ぐために、腕に覆いをしていた。プリニウスは、いつも読んだものの覚え書をした。死後、彼は甥に小さい字で書かれた百六十冊のノートを残した。

 

博物誌』についての彼自身の説明

以上が、プリニウスがどのような環境で、どのような方法で、自然に関する百科全書を完成したかを示すものである。彼が言うように、ギリシア人であれローマ人であれ誰もこのような広範な仕事を企図したものはいなかった。百人の著者の約二千冊の書物を読み、そこからほぼ二万の題目を選び出したことを彼はつけ加えている。(1) しかしながら、引用文献と引用から判断すると、彼は百人以上の著者を利用したように思える。だが、書誌に加えたすべての著作を全部読んだわけではないと思う。それらの研究者たちの著作を入手しはしたが利用したものは少ししかなく、古代の当時の著作者に知られていなかったものや、その頃発見されたところの多くの事実をつけ加えている。ときどき彼はガリア人とドルイドの信条と慣習についての知識を示している。このように、彼の著作は、他の書物以上の価値を持つ編集作品であると考えられる。だがしかし彼はいう、自分はたんに人間に過ぎないし、自分の時間もいろいろなことに使わなくてはならないので、おそらく多くのものを見落としてしまったであろうと。彼は自分の扱かった主題が無味乾燥(stelis  materia)であり、それ自体が文学的興味を呼び起こすものでないこと、また、会話や驚くべき事件や変化に富む出来事のような、書いて刺激を与えられ読んで楽しめるような内容を含んでいないこと、さらに、粗野な、外国の、野蛮人の用語さえもしばしば使わなければならなかったので、語法の純正さや品格が失われたことを認めている。それにつけ加えて彼は言う、「古いものに生気を、新奇なものに明確さを、平凡なものに光機を、曖昧なものに明確さを、陳腐なものに明確さを,疑わしいものに確実性を、そしておのおのにその本質を、本質に特性を与えることは困難な仕事であります」<1>。

 (1) 序17

 <1> 序15

 

科学への傾倒

 だがしかし、この広範な仕事について、多くの人々が価値のないつまらないことに時間を浪費していると嘲笑したとき、プリニウスにとっての大きな慰めは、彼が軽蔑されているときは自然も軽蔑されているのだということであった。(1) 他の一節で彼は、軍隊の歴史の中の流血や殺戮と、天文学者が人類に与えた利益とを比較している。(2) また別の節では、(3) ギリシア人が、政治的不統一や争いを続けていた時代にもかかわらず、また異った場所の情報連絡が戦争と同じく、海賊によって妨げられているにもかかわらず、科学に大きな関心を抱いていたこと、これに反して現在、全帝国が平和でありながら、ひとびとは新しい研究に乗り出す事もなく、先人たちの仕事をすら充分に勉強せず、研究よりも金銭の獲得に没頭している始末だといっている。これらの章句は、プリニウスの科学に対する傾倒の例証となるものであろう。

 (1)二二15

 (2)二43

 (3)二117

 

 科学と宗教の葛藤について

 われわれはプリニウスの中に科学と宗教の葛藤についての徴候を見る。神に関してのある一つの章で、かれは教父たち<church fathers> についてそんなに多くはないが触れ、そのあとでもっと長く偶像礼拝と多神論についてくりかえし述べている。だがかれの論議がクリスチャンを満足させることは困難であろう。彼は「人にとって、ひとを助けることが神であり 、これが永遠の栄光への道である」と主張する(1)。だが彼はこの高貴な感情を、人類のために大きく貢献した皇帝の神格化を正当化する方向へ向ける。彼は、神が人間世界の出来事に介入しているかどうかを問う。そして、いたずらっぽく、もしそうであるにしても、神は忙しすぎてすべての悪事を敏速に処罰することができないと示唆する。そして、神にとっても実行不可能なことがあると指摘している。神は人間のように自殺することもできないし、過去の出来事を変更したり、十の二倍を二十以外のものにすることもできない。プリニウスはこのように結論づける、「これらの諸事実は明らかに自然の力を立証するものであり、われわれが神だと呼ぶものはこれだということを証明している」と。他の多くの章句で彼は自然の仁慈や摂理について叫ぶ。魂は肉体から離れては存在しないし(2) 、死後はもはや肉体を離れて感情もないし、生れてくる前から魂が存在することもない、と信じている。肉体の不滅という希望は、死にたいする恐れから生れた「幼稚なたわごと」と軽蔑し、彼自身は、肉体の復活などということはどんな可能性もないと信じた。要するに、自然の法、機械的な力、科学研究が可能な事実、これらが、彼の強い関心を充分に満足させたものであり、彼が認めたもののすべてであるようにおもえる。だがわれわれはのちに、彼が科学と魔術の区別に最大の困難を抱えていること、彼が否定したような神々を信じている偶像礼拝者と同じように、われわれにとってはまったく迷信と思われる多くのものに彼が科学としての信頼性を与えたことに気づくだろう。しかし、もし誰か読者が、これを理由にプリニウスを軽蔑する傾向があったら、それをやめてこう考えさせるがよい。プリニウスは一部の現代科学者たちの宗教的信心や、交霊術や心霊研究を軽蔑するに違いないと。

(1)  二18<"deus est mortaliiuvare mortalem">

 (2)七188

 

プリニウスは練達した博物学者ではないこと

 しかしながら、彼の著作がどれくらい正確に古代科学を描出しているかを判断するためには、その仕事に対するプリニウスの適性についての一定の評価をするのが望ましい。かれは、自然科学についての行き届いた訓練や経験を自身では持たなかったように見える。彼は、広く深く自然界の現象や作用を観察する博物学者のようではなくて、知識の大部分を書物や伝聞によって得るような乱読家やおびただしくノートを取る人のように著作した。しかしときどき彼は「彼らが言った」というかわりに「私は知っている」といい、自身の観測と経験の結果を示した。基本的には彼自身は科学者ではなく、科学または自然の歴史家にすぎない。結局、Natural History という題はたいへん応しいものである。もちろん、彼が過去の著作を正しく評価するための充分な科学的訓練を受けていたかどうかという疑問がおきる。彼は最良の部分をノートしただろうか、それらの意味を理解しただろうか、つまらない理論を取り上げて、何人かのアレキサンドリアの科学者たちの正しい見解を見逃したりはしなかっただろうか。それらの疑問に答えるのは難しい。それについては、彼は難解な科学的理論は少ししか扱わず、主として単純な内容や地理的場所や、かれにとって道に迷うおそれのないように見える問題を扱ったのだといえるだろう。科学の専門家は、当時はそんなに多くはいないし、なによりも科学はまだそう広くは広がってもいないし分化もしていないので、個人が全分野を網羅して充実した力量を充分に発揮することは望めなかったと思われる。小プリニウスの評価はたぶんえこひいきがあるだろうが、彼は『博物誌』について「自然そのものと同じくらい変化に富んだ、取り扱い範囲の広い、博識なすぐれた作品です」と述べている。(1)

 (1)「マケルあての手紙」、『書簡集』3・5

 

 典拠した文献について 

 個人的な勤勉とか、衰えを知らない好奇心とか、手伝いをする書記に充分恵まれていたことがはっきりしていることと、そういうこと以上に、編集者としてのプリニウスによる恩恵は、多くの著作家達が謝辞を述べることもなく他人の著作を一語一句写していることを承知しているにもかかわらず、プリニウス自身は典拠した文献についての完全で忠実な記録を残したことである。しかしながら、彼はそれらの文献の多くに大きな賞賛の念を示し、道なき山頂から草の根にいたるまで、あますことなく試み探究した古人の注意深さと勤勉さに、再三再四感嘆の声を放っている(1) 。

 にもかかわらず、ときどき彼は彼らの主張に反論している。たとえば、ヒポクラテスは、熱病の七日目に黄疸が現われるなら命取りのしるしだと言っているが、「しかし私は、この状態からさえ回復した例をいくつも知っている」(2) と言っている。またプリニウスは、琥珀について嘘を書いたといってソフォクレスに文句をつけている(3)。 彼が劇や詩に厳密な科学的真実を期待したということは、驚くべきことのように思える。だがプリニウスは多くの中世の著者たちのように、詩はすぐれた科学的著作と見なしたようである。他の個所で彼は、ある植物の有毒性に関して、対立する他の著作家達の見解よりもソフォクレスの記述のほうを採用している(4) 。彼はまた魚についてのメナンドロスの考えを例にあげているし(5) 、ほとんどすべての古代人のように、ホメロスをあらゆる問題の権威者であるかのように扱っている。プリニウスはしばしばヌミディアのユバ王の著作を引用しているが、古代においてこの人物ほど大うそつきはいなかったように思う (6)。 とりわけ彼は、アウグストゥスの息子ガイウス・カエサルのために書いた書物の中で、六百フィートの長さで三百六十フィートの幅のクジラがアラビアの川に入ったと述べている (7)。だが、プリニウスはどこで冷静な真実に戻るのだろうか。ストア学派のクリュシッポスはお守りについてむだ話をしている(8)。偉大な哲学者デモクリトスとピユタゴラス(9) のものとみなされている論文は魔術にあふれている。キケロの作品の中に出てくる一三五マイル先が見える人のことについて彼は読んで知っていた。ウァロも、この男がシキリアの岬から出てくる船の数を数えることができたと述べている。(10)

 (1)七8 、二三112、ニ五1 、二七1

 (2)二六123

 (3)三七43

 (4)二一153

 (5)三二69

 (6)だが、C・W・キングは『宝石の博物誌』 Natural History of Precious Stons,p.2で、ユバの論文が失われたことを嘆きながら「彼が正確な知識を得るための地位と機会をもっていたことを考えると、多分この『願望』という悲しいカタログのなかでわれわれが遺憾に思うべき最大のものであろう」と述べている。

 (7)三二10

  (8)三二103

 (9)しかしBouche-Leclercq (1899)はp.519 でAulus Gellius(10,12)は、そのような著作を真実のものとして認めたことについて、プリニウスの信頼性に異議を申し立てて「コルメラ(7. 5)は確実な例として Bolus de  endes  をあげている。それはυπоμνηματαの著者をデモクリトスに帰そうとして」と述べ、しかしながら「デモクリトスは魔術の大博士であると言ってもよい何かをもっている」とつけ加えている。

 (10)七85

 

 整理と分類の不備

  『博物誌』は整理がまずく、科学的に分類されていないと批判されてきた。しかしこのような批判は古代の多くの著作について言えるのである。彼の表現は、理論的・組織的にというよりも漫談的であり散漫であるという傾向がある。アリストテレスの『動物誌』でさえもLewes (1) によれば、整理は分類的ではなく素材の選択も不注意であるという。私はときどき、スコラ哲学の世紀は人類に少なくとも一つの貢献をしたと考えた。それは講演者や著述家たちに素材をどのように分類すべきかを教えたことである。プリニウスが、忙しい皇帝のための便利さを考えて、内容の全一覧表をつけ加えたことは、当時にあってはむしろ進んでいたといえよう。ローマの著作家の中ではただ一人ウァレリウス・ソラヌスだけがこの件では先立っていたと考えられる。構成を急ぎすぎたとか、題材の取捨と比較に失敗したとかのひとつの徴候は、プリニウスが時々矛盾した記事を書いたり含めたりしていることに現われているが、多分違った著作からとったからであろう。一方彼は、往々、前にかいた文章の一部に言及しているが、このことは彼が自分の素材をたいへんよく掌握していたことを示すものである。

(1)G.H.Lewes, Alistotle; a Chapter  from the Historytry of  Science, London 1868.

 

 無神論<懐疑論>と軽信性                                                

 プリニウスはかって、何も得るものがないような悪い本はない、と言った。(1) 現代の読者にとっては、彼は信じがたいほど軽信的であり、題材の選択も無秩序だし、真実と虚構のあいだに何の基準も見出せない。だがしかし、彼はしばしば懐疑主義的態度をとり、他の著作家の信憑性と誇張性を鋭く批判している。彼は狼に変えられて九年か十年を狼の群の中で過ごした人間の話にふれて「ギリシア人の妄信はどこまでいくことやら、驚きいる次第である。どんな破廉恥な虚誕も支持者にこと欠かないのだ」(2) と評している。彼はある個所で、承認できる著作家だけを含めるという決心を表明している。(3)

 (1)Letters of Pliny the Younger3.5,ed.Keil,Leipzig,1896.

 (2)八81-82

  (3)二八2

 

 古代科学の案内人

  今日の我々にとってみれば、『博物誌』は事実と虚構の無秩序・乱雑な集積と思えるのだが、全体としてみれば、それらの欠陥は、多分、扱った年代や著作家たちがあまりに広範であったことからくるものであろう。もしそれが、古代最良の科学者たちの最高度の業績ともっとも明析な思考を照らし出すものではないとしてプリニウスガ書き残してくれなかったら、多くのヘレニズム時代の科学者のうち相当部分が知られずに終っただろうと言われている・・それは、たぶん、彼自身の時代とそれに先立つ時代における、自然に関しての科学と誤謬の、まったく忠実な概要であるだろう。いずれにしても、それは、われわれの手元に届いた最良の記述である。この書からわれわれは、ヘレニズム時代の魔術と科学に関してわれわれが混乱した背後事情を知ることができるし、また、ローマ帝国と中世への二つの発展の道の背景をも明らかにすることができるのである。プリニウスはいろいろな点で豊富な話題を提供したし、古代や中世の科学書の水準よりずっと豊饒なので、自然に関する後世の著作家の記述との重複を見つけ出すことが期待できる。そういう個所をかなり含んだ参考書として残してくれた。もちろん、そのような記事は後世の著作家の独創によるものではないが、かと言ってプリニウスを写したものだという確かな証拠もない。両者が同じ著作を利用したのだろう。帝国の後代におけるプリニウスの作品を知らないギリシア人の著作家によるものではなかろうか。

 

  中世への影響

  だがしかし、プリニウスは疑いもなく中世に直接の影響を与えた(1) 。『博物誌』の写本は数多くあるが、確かに読みやすい状態ではない。それは訂正や修正が不正確さを高めたことによるし、また多分、他の点においてもプリニウスについての重要で不適当な扱いがあるからだろう(2)。 また、多くの写本がわずかの巻だけであったり、テキストの断片であったりするため、多くの中世の研究者たちがプリニウスの一部分だけしか知らなかった(3)。 しかしながら、このことは、間違って彼らの著作の中にプリニウスから多くをとりいれたのだと論ずることは難しい。なぜなら、彼らは『博物誌』についてはよく知っていたから、その内容をとり上げて彼ら自身の著作の中に他の素材を盛り込むことを容認したり試してみたりしたのであろう。後の章で『博物誌』からひきだした論文である『プリニウス医学』について述べよう。プリニウスのrerum naturaという言葉は、いくらか似た視野をもった中世のいくつかの百科全書のタイトルとなった。そして、かれに起因する「賢者の石」の上で仕事をすることから免れるには、彼の名は中世においてあまりにもよく知られていた。(4)

(1)Ruck , Die Naturais Historia  des Plinius im Mittelalter,inSitzb.Bayer.   Akad.Philos-Pilol.Classe (1908) pp.203-318. 後期ローマ帝政時と中世初期のプリニウスの引用については、Panckouke, Bibliotheque Latini-Francaise, vol. CV1.を見よ。

(2)写本の研究にはDetlefsen の最初の五巻の各序文があり、より充実したものとしてはJahn の Neue Jahr.,77,653ff, Rhein.Mus., 15,265ff;18,227ff,327. の中の彼の論文を見よ。

  デトレフセンは英語の写本は利用しなかったようだ。だが、Coxe  が「たいへん立派に書かれ保存された」と述べた十二世紀末、オックスフォードの New Collegeでつくられた『博物誌』の最初の十九冊の本は利用したらしい。

  また、デトレフセンは十二世紀のLe Mans 263 に言及していない。これは、全三十七冊で、最後の一冊だけは不完全である。一頁を使って自分の著作をウェスパシアヌスに献呈しているところが細密画(fol.10 ) で描かれている。Escorial<1> Q-I-4 とR-I-5 は、デトレフセンが使用し損なった十四世紀のもう二冊の実際的テキストである。

(3)次を見よ。 M.R.JamesのEton Manuscripts, p.,63,MS 134, BL.4.7., Roberti Crikeladensis Oxoniensis excerpia ex Plini Historia Naturali,12- 13 thcentury,in a lage English hand, giving extracts sxtending from Book 2to Book9.

  Balliol<2>124, fols,1-138,cosumografhia mundi. 著者 John Free  はブリストルかロンドンで生まれ、オックスフォードのベェイリャル・カレッジの評議員(特   別研究員)を勤め、のちパドゥアで医学の教授、ローマで医者となった。また大変   市民法とギリシアに明るい。Coxe  は「この著作は二巻から始まって二十巻で終っ   ているプリニウスの『博物誌』の一連の抄録でしかない」と言っている。John  Fr   eeが、先の註であげたThe first nineteen booksの写本を利用しなかったのが不思議だ。それ以後『博物誌』の第二巻がしばしば第一巻とされてきた。Balliol 146A; 15th century,  fol . 3-,『博物誌』の要約が、「キリストの下僕、私、Regina   ld(Retinaldus)がこのプリニウスの書を通読せり・・・・・・」 という巻頭の序文付きであらわれた。

 (4) Bologna,952,15th century,fols. 59-60,"Tractus oputimus in quo expsuit

     et aperte detlaravit plinius  philosophus quid sit lapis  philosophicus et  ex qua materia  debet fieri et quomodo"

 <1> エスコリアル。スペインのエル・エスコリアルの町にある有名な建造物で宮殿・礼拝堂・僧院などを含む。

 <2>Ballial はオックスフォード大学のもっとも古くて有名な寮( college )の一つ。

 

初期の印刷本

 少なくとも中世の終りごろには、『博物誌』全巻がよく知られていたということは、多量の版の存在がそれを示している。それらのうちいくつかは非常に良い状態で印刷されている。それは印刷技術が発明されるとすぐにイタリアの印刷機でつくられたものである。1476年と1489年にベニスで出版されたイタリア語訳は言うにおよばず、フロレンスのMagliabechian 図書館だけでも、1469年と1472年にベニスで、1473年にローマで、1481年にパロマで、1487年・1491年・1499年にふたたびべニスで印刷された版がある。それらの版には、プリニウスの主張についての、公表された若干の評論が添えられている。それ以後、1492年にはフェルラーラ<ポー川河口に近い都市、古い大学や大聖堂がある> に、ビチェンツァ<イタリア北東部の都市> のニコラス・レオニケヌス<Nicolas Leonicenusの現した『医学におけるプリニウスその他の誤りについて』が出た(2)。 これはポリツィアーノへの献題がついている。だが二年後プリニウスには Pandulph Collenuciusという擁護者が現われた(3) 。

だが,プリニウスの後世への影響については後の章でくりかえし述べよう。今は、まず第一に、彼が経験科学についてどんなしるしを残したか、あるいは過去から何を引き出し、かれ自身は何をつけ加えたかを問おう。第二に、魔術に関して彼がどういう立場を示し、どう述べているか、第三に、彼が自然科学だと考えたもののうち、どれだけをわれわれは重要な魔術として重視したらよいのだろうか、ということを問題としよう。

(1) Fossi『フロレンスのマグリアベチアナ公立図書館に保存されている一五       世紀に印刷された文書の目録』(1793-1795 )2、 374-81。

  (2) De errorebus Plini et aliorumin medicina,Ferrara,1492.

  (3)  Pliniana defensio,1492.