静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

ハイネよ!生きることとは?

2012-10-14 14:27:56 | 日記

(1)                                                                     
 19世紀の人ハイネは、ユダヤ人だったのかドイツ人だったのか知らないが、つぎ
のように書いているそうだ。「死ぬほうが生きるよりましであり、いちばんよいのは
生まれてこなかったことである」(マイヤー『彼らは自由だと思っていた』265頁)。

 プリニウスはいう、人間のたった一つの過ちは生まれてきたということである。だ
から、受罰をもってその生涯を始める。人間は裸のままで生まれてきて、生まれるや
いなや大泣きする。他の動物にそんな泣き虫はいない。そして、手足を邪魔もの(衣
類など)に包まれて泣きながら横たわっているだけだ。・・・こんな出発をしなが 
ら、自分たちは誇りある地位に生まれてきたのだなどと考える者がいるとは、なんた
るたわけたことだろう!人間は教育によらなければ何一つ知らない。ものを言うすべ
も、歩くすべも、食べるすべも知らない。生まれながらできる本能といえば泣くこと
だけだ。
 従って、生まれてこなければよかったとか、できるだけ早くこの世からおさらばし
た方がいいと信じた人々も多かったのだ・・・と。
 
 さしづめ、ハイネはプリニウスの見解に感応しているように見える。ハイネに限ら
ない、プリニウスのように考える人々は、長い歴史のなかできっと「多かった」に違
いない。いや、プリニウスはよく読まれていたので、しばしば利用される。ハイネも
そうだったかもしれない。確かに、生まれてこなければ死の恐怖もなく、病気もなく
、貧困もなく、人生を悩んだり不幸と感じたりすることもないのだ・・・共感者の多
いことも頷ける。
 だが、毎日毎日が、そして毎年毎年が幸福だったら、生まれてきたことを悔やむこ
ともないだろう。ブータンの国民の幸福度が高いことは前から知られていた。昨年、
国王夫妻が日本を訪れたときには、「ブータンの幸福」がマスコミ等を通じて全国に
知れ渡った。幕末から明治初期に日本を訪れた多くの西欧の人たちが、日本の子ども
たちがほんとうに無邪気に楽しそうに遊んでいる姿に驚きの声を挙げている。私たち
がブータンの子どもたちを眺めるような眼で彼らは日本の子どもたちを眺めたのだろ
うか。
 幕末や明治初期だけではない、昭和になってからでも、大平洋戦争が始まる頃まで
は、全国の町々でそのような子どもたちがあったのだ。土門拳が撮った遊ぶ子どもた
ちの姿はそんなに昔ではない。「毎日毎日、こんなに楽しくっていいのだろうか」と
自問する子どもたち・・・。乗用車など、町に数台しかない時代のことである。町中
をのんびり歩く牛車の空き荷台に、御者の目をかすめて後ろから飛び乗る・・・。御
者は知って知らぬふりをして牛を曳く・・・そしてときどき後ろを振り向いて「コラ
!」と怒鳴ってみせる。子どもたちは慌てて飛び降りるが、様子をみてまた飛び乗る
・・・。
 学校へはみんなわら草履を履いていく。登校途上でときどき鼻緒が切れる。自分で
直せるが面倒だとばかり捨ててしまう。各家の前に置いてある木製のゴミ箱に投げ入
れる。そして裸足。舗装などしていない土の道だが、そのうち足裏が丈夫になり、な
んら痛ようを感じない。毎日が裸足の生活になる。なんてのどかな・・・そのような
世界がつい先ごろまであった。
 去年(2011年)、法政大学の研究チームの「47都道府県の幸福度に関する調査」で
福井県が第1位になって話題になった。ところがそれに対し、それは福井県民の民度
がブータンのように低いからだと批判する声の紹介もあった。その発言をそのまま是
認するかのような記事を書いた人物の見識も自ら伝わってきた。昔「太ったブタとな
るより、痩せたソクラテスとなれ」と卒業生を送り出した大学学長がいた。経済的な
力と民度とは違う。ブータンの人々や福井県民を民度が低いからと片付けてしまう人
間たちは余程民度が高いのだろう。思いめぐらせば、日本の政財界を牛耳っているお
偉方はみんな民度が高く、「原子力ムラ」の人たちはもっと高いのだろう。       
                               
 子どもはたんに大人への準備期間ではない。子どもも立派な、いや、最も重大な人
生をその瞬間に生きている。一人一人が人格をもった個人として。「楽しくて楽しく
てしょうがない毎日」を過す人生とそうでない人生と・・・。昔は塾もお習いごとも
、宿題もなかった。遊ぶことが人生であり、生を豊かにし、将来の健全な社会人とし
て生きていく術を知らず知らずのうちに学ぶ場でもあった。バレーのボールも、バス
ケットのボールも、サッカーボールも、ましてラグビーボールなど、聞いたことも見
たこともなかった。小さなゴムボールがあれが、それで草野球をし、広場があればボ
ール蹴り(今思えばサッカーだった)をした。ボールがなくても、空き缶一つで遊び
ほうける事ができた。お寺の境内でカンカンを蹴り、缶が蹴飛ばされるとみんな大急
ぎで墓石の後ろに隠れる。鬼がその墓石の後ろを探し回る。お寺の住職はそんなこと
にいちいち文句は言わない。そういう情景が人生なのだ。

 戦争が日本人の日常の生活を変え、人生観を変えた。だが日常使う言葉まですっか
り変えてしまったわけではない。
 戦後、偉い大学の先生などが、戦中は敵性語の使用は禁止されたとおっしゃる。東
京の大学のキャンパスの中ではそうだったかも知れないが、田舎町の子どもには全く
無縁のこと。ボールはボールである。ストライクはストライク。ガラス、コップ、ナ
イフ、サイダー、カレーライス、、マッチ、シャツ、ズック、セルロイド、コンパス
、(消し)ゴム、クレヨン、ビーカー、フラスコ、ガス、アルカリ、アルコール、ボ
タン、ランドセル、リュックサック、カバン、オルガン、ピアノ・・・キリがない、
みんな敵性語に見えてくる。ある日突然、音楽の時間、「ドレミファソラシ」が「ハ
ニホヘトイロ」になった。理由は全く分からない。なぜアメリカと戦争を始めたのか
分からない、それと同じだ。多分敵性語だというのだろう。ドレミファは元来イタリ
ア語だ。イタリアは同盟国だ。嗤わせるではないか。支離滅裂だ。そうして子どもた
ちの「楽しい生活」は失われて行く。

(2)
 学友2人が自殺した。もちろん戦後のこと。一人は列車への飛び込み。も一人は深
夜教室に入り込んでそこで薬を飲んだ。もうひとつ、親友の経験談。ある日一人で寮
の部屋にいたら一人の上級生が入ってきて押入れを貸してくれという。昼間他人の部
屋に来て押入れを借りるなど、これはおかしい。だが友人は黙って貸した。おおかた
分かっていたと友人は言う。先輩は押入れのなかで毒を仰いだ。オレは自殺幇助にな
るのだろうかと悩んでいた、おまえだけに話すが・・・と。
 上級生になって寮を出て下宿した。ある日、玄関の式台にかけて少し考え事をして
いたら、下宿のおばさんが「外山さん、自殺などしてはいけませんよ」と声をかけて
くれた。 ここの学校のキャンバスの隣に公園がある。その広場を見下ろすように大
きな銅像が立っている。日本で最初に作られた銅像だとも言われている。その像の下
にたって鼻の穴を覗くと、立ち位置がよければ頭の天辺の穴を通して空が見える。覗
けた者は合格する、つまり「通る」という伝説があり、みんな受験日の前に覗きにく
る。みんなというのは嘘である。そんなばか話を信じていたら近代の学問の府に入れ
る筈がない。しかし、みんなこっそりと覗きに来たりするのではないかと思う。特に
地方から来た受験生にとっては一つの思い出になる。このまちの心の豊かさはこんな
ところにもあると思うのだが・・・。それなのに、せっかく「通ることができた」学
生生活を自らの手で絶ってしまう学生もいるのだ。

 人間はすべて死す運命にある。だが神は不死であり、自殺もできない、気の毒に。
なのに不死を願う人間は絶えない。なにも始皇帝だけではない。だが一方で人間は死
ぬことができるから幸せだ・・・古代からそのように考えて来た人たちもいるのだ。
誰もがそのように考えたわけではないが・・・。
 神風特攻隊員による攻撃は、自死が目的のように見える。神になれるのだ、靖国の
神に・・・。神になれば死ぬことはない、永遠の生命を与えられる。
 多くの兵士が飢えと病の揚げ句異国の地で自死した。それでもやはり靖国の神には
なれる。サイパン島、沖縄を始め多くの地で民間人も集団自殺に追い込まれた。この
人たちが神になることは難しい。
 学校でいじめに遭って飛びおり自殺する子がいる。日本帝国陸軍内のいじめは有名
だ。「いじめ」などというものではないかもしれないが。軍隊はひどい所とは、子ど
もながら若干気づいていたが、戦後山本薩夫の『真空地帯』を見て驚いた。あのいじ
めは全国の学校にも影響を与えていたと思う。戦後、軍隊風ないじめはなくなった筈
だ。憲法には全て国民は個人として尊重されると書いてあるではないか。誰によって
尊重されるか明言されていないが、他人によって、自分によって、社会によって国家
によって・・・尊重されねばならぬことは明白である。新旧の教育基本法はともに「
人格の完成」を教育目標のトップに掲げているが、人格など完成していなくてもいい
、他の人を、それぞれの人を、一歳の子どもであろうと三歳の子どもであろうと、七
歳、十二歳の子どもであろうと、身体障害者であろうがなかろうが、それぞれを一個
の人間として尊重しなさいと、人類の歴史は教えてきた。

 私はハイネがどういう状況のなかで冒頭の言を吐いたのか知らない。晩年の長い病
の中でなのか、若い頃の、あの柔らかな数々の詩を作っていた頃なのか。人々が、醜
い人生、賎しい人間を目の当たりに見ながらも生きていけるのは、美しいもの、ハイ
ネの詩のような、素晴らしい人間たち、偉大な芸術、絵画・彫刻・音楽、文学、思想
・・・そして美しい夕焼け、満天の星空・・・それらが生の喜びに繋がっているから
かもしれない。プリニウスもしばしば人間の生に疑問を投げかけるが、自己の書のな
かで人間の偉大さ、美しさをうたうことを忘れなかった。そして彼自身が人間の生き
ざまを示してくれた。