静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

自誌(4)夢よ破れな

2012-01-24 13:18:34 | 日記

(一)東洋平和?
 1月17日は不吉な日である。貫一がお宮を蹴飛ばした。イラク戦争が始まった。
阪神淡路大震災が起きた。この1月17日、無理にさそわれて「北京古宮博物院20
0選」展を見てきた。9時半の開門時間に間に合うように出かけたのだが、案の定す
でに数千人の行列。皆のお目当ては前評判の「清明上河図巻」。その展示室にたどり
着いたのは3時間後。5メートルほどの長さでガラスケースに納まっているのを1列
に並んで順に上から眺める。少し間が空くと係員から「詰めてください」。ほぼ4分
ほどの鑑賞であった。3時間並んで4分。見終ってそれ以外の展示を見て回る。9時
半に入門して退場したのが午後4時、その間20分ほど座って休憩した。それ以外は
立ちっぱなし、足が文字通り棒のようになり退散することにした。この長さは人生初
めての経験? やっぱり受難の日だった。絵の善し悪しを評する資格など私にはな 
い。ただ、感じたことを1つ2つ。

 ここに展示されている絵画は恐らく東洋の絵画を代表するような絵画だろう。私は
前にドイツの実術史家ザントラルの言葉をめぐっての絵画論の一端を紹介したことが
ある(ブログ「『影の歴史』に寄せて」)。も一度その要点を述べる。
 ザントラルはいう「中国人の絵は何ら陰影をもたない輪郭だけしか再現しない、量
感を生み出そうともしない、空間の奥行きを表現する方法をしらない・・・」。
 これに対しストイキツァーは「西洋美術と比べれば、中国美術は『その他の実術で
ある』、中国美術が『異なっている』理由は、それがヨーロッパの規範を無視してい
るからだ」と反論した。私はこれは「無視している」のではなく別の世界に、違った
価値観の世界を築いてきたのだ」と評を加えた。
 私は中国の国宝級の絵画をこんなに沢山一挙に見たのは初めてだ。私の見た限り確
かに影は描かれていなかった。私は同行者にそのことを指摘してみせたが、全く無反
応だった、というより怪訝な顔をされた。中国絵画を鑑賞するのに陰影などは問題外
なのだ。そもそも日本人は影のない絵画に親しんできた。東洋絵画は陰影をつけなく
ても空間の奥行きを描く方法を見いだしているのだ。
 西洋人から見ると、西洋の絵画の発展が正常な発展のように思えるかも知れない
が、われわれから見れば、東洋の絵画の方が正当な、まっとうな発達の歴史を辿った
のではないかと思えるのである。
 評する資格などないことははっきりしているが、「清明上河図巻」について1つだ
け感じたことを。この絵の写真などあちこちに出ていていたが、本物は全くと言って
いいくらい違った。本物と写真や複写が違うことは昔から明らかなことではあるが、
改めてそう思った。それなのにたった4分間、情けない。作者は張択端という人だそ
うだが、彼は何を考えながら描いたのだろう。推測はできるが、そんな推測はほとん
ど当たらないだろう。

 感じたことのもう1点は「図巻」のこと。わが国では「絵巻」というのだろうか。
「長江万里図巻」というのもあった。これは15から20メートルくらいはあったろ
うか。それ以外にも「図巻」はいくつもあった。「図巻」以外に「詩巻」というのも
ある。
 西洋でも古くから巻物はあった。しかし横ではなく縦に巻く。西洋の文字はは昔か
ら横書き、中国では縦書き。これが決定打になったのだろう。東洋の横巻きの絵画な
ら、長江を行く皇帝の大船団を一望に描ける。何百メートルに及ぶ軍団の入城をも俯
瞰できる。一巻に収めることができる。縦巻きならできない。そんなことは日本人に
はわかっていることだ。しかし西洋では考えられないだろう。絵巻の一部を切り取っ
てその部分を絵にして壁に掲げるか直接壁に描くしかない。縦長の絵巻に相応しい画
題は芥川の「蜘蛛の糸」とか「ジャックと豆の木」か? あるいは「天孫降臨図」か
? 私は「図巻」を見ながら改めてつくづく思った。空間的奥行きを描くのにどちら
が有利か・・・。

(二)満蒙開拓者
 たまたまドラマ「開拓者たち」の最終回を見た。そんなドラマがあることも知らな
かった。わたしはすぐ、ある詩人(加藤秀雄)の一つの作品を思い出した。

        移民
 祖先の墓の埋もれている/ふるさとよ。/帰る日 期せず/また ふたたび
  土地のない/水呑み小作/そのみじめさに/憧れる”大陸”/夢よ破れな
 はなやかに/テープはためき/やがて切水/船、いま岸壁を/ゆっくりと離れる
 顔も服も/よこなぐりの雨にズブぬれだ/それもかまわず/わかれの旗を- 

 「農家のおばさんがリアカーで野菜を売りにくる、だけど、どれも安くて安くてた
だみたい。あんまり気の毒で、たくさん買ってあげようと思うけど、そんなに沢山は
必要ないしね・・・」と困ったような顔をする。
 子どものころ、何回もそういう話を母から聞かされた。昭和3年の農業恐慌の頃の
話である。それから2年後、世界恐慌のあおりで、機織り工場を経営していた母の実
家が倒産した。工場も家屋敷も手放した祖父は、いわば下町の小さな家に引っ越し、
酒をあおって無為の日を送っていたらしい。
 昭和6年、いわゆる「満州事変」が起きる。「起きる」というのは庶民の感覚で、
「地震が起きる」というようなものである。政府の権力者・高級軍人は「起こした」
のである。「満蒙開拓団」がどんどん送り込まれてゆく。私は戦後「満州」から帰国
した人を何人も知っている。だが、一度も「満州」時代のことを聞いたことがない。
あえて聞かないせいもあるが・・・。
 一度だけ関東軍の兵士であったT氏に、兵士としての立場からの話を聞いたことが
ある(ブログ「タシケントの日本人捕虜」参照)。その一部を共通語に直して要約す
る。
 「満人は日本の兵隊が恐ろしい、だから小さくなっているんです。日本の兵隊は威
張っていて気の毒なくらいです」「日曜に町へ出るのにも、日本兵は5人以上でない
とだめですね、危ないので。それだけ日本に対して反感を持っているんです。満州国
を承認したのは日本だけ、他にどこも承認していません。はっきりいうと、満州国は
日本のものにしたようなものです。ほとんど日本人が支配しております」「満州には
兵隊の他に開拓団というのがあって、その開拓団も兵隊です。まあいうとね。日常は
畑で仕事をしておる。家に帰ってくると、そこにははちゃんと鉄砲があります。さあ
戦争というと、その人が出る。そういう訓練しています。そういう人たちも、いざと
なると、鉄砲持って出なければならないんです、命令が出ればね」
 T氏は普通の農家の人であり、当時一等兵だったと思う。特定のイデオロギーを持
った人ではない。だから、以上の感想は一般的・平均的な日本兵の感触だと思う。
 最近、大平洋戦争に乗り出したのは石油の供給を絶たれたのが原因だという論調を
、新聞や研究書などでいくつも見た。まことに微視的な見方である。T氏は、「満州
国」をでっち上げたがどの国も承認しなかったといっている。国際連盟の席を蹴って
出たのは日本である。その以前から孤立の道を歩みはじめた日本が、本格的な孤立へ
と進んでゆく。今日、イランの石油を買うなという圧力をかけている国がある。売ら
ないも買わないもともに圧力である。
 「満州」民族は大清帝国を築いた民族である。今回の「古宮博物院」展で清国の見
事な芸術作品に接することができたのは幸せなことであった。

(三)「黄金狂時代」
 私は昭和17年4月、A中学に入学した。この中学は昭和2年設立、初代校長は退
役陸軍少将武川寿輔、乃木希典軍に加わり203高地で負傷したという触れ込みの人
物。203高地というのはいうまでもなく中国「満州」の領土。A中学は、A城本丸
跡に鉄筋コンクリートでゴチック式の威厳のある3階建ての校舎であった。校門近く
の道路脇に小さな公園があり、そこに山鹿素行の胸像が立っていて、近所の小学生は
その像によじ登ったりして遊んでいた。だが中学生は登下校の際その胸像の前で挙手
の礼をする。像に登って遊んでい小学生も、中学に入るともったいぶって敬礼する。
 昭和14年の職員録のコピーが手もとにある。全職員は校長を含めて31人。内訳
は教諭が14人、嘱託(6人)校医(3人)将校(2人)書記(1人)などが17 
人、計31人。うち教諭2人、その他で4人、計6人が応召中・・・随分高い比率で
はないか、日中戦争始まってすぐなのに。教諭が応召されるとすぐ後がまを探さなけ
ればならない、嘱託で我慢するということになる。その嘱託がまた応召される、また
その後がまの嘱託を探さなければならない。ほとんどが「満州」を含めた中国に出征
したのだろう。
 ついでに、職員の本籍をみてみる。全職員のうちA中学の所在県に本籍のあるもの
14人、県外は17人である。戦後の今日、教員の人事権は各自治体の教育委員会に
あるので他県にまたがっての転勤はない。他県に行きたいなら、一度退職して希望す
る自治体の採用試験を受けるしかない。運が良ければ合格と採用という関門をくぐる
ことができる。しかも多くの自治体で年齢制限(多分34歳か35歳)しているの 
で、他県への異動はとても困難。他県との交流はほとんどできない。
 戦前は違った。小学校のことは知らないが、少なくとも中学では他県への異動は自
由だった。だからA中学の職員の半分以上が他県出身者で占められていても不思議で
はない。よくは知らないが中等学校教員には奏任官待遇と判任官待遇があったようで
、すくなくとも奏任官待遇の辞令は内閣総理大臣の名で出されと思う。実際は校長が
全国の教員名簿から選んでうちへ来てくれないか、これだけ給料を出すからと交渉し
た。給料額は校長の裁量で決めることができる。各学校に予算の割当があったらし 
い。今で言えば、プロ野球選手のスカウトみたいなものか。先のA校の名簿を見る 
と、鹿児島県、宮城県、長崎県、新潟県、千葉県、島根県、広島県、大阪府など、全
国的規模で集まってきていることが分かる。
 戦前と戦後の、この教員採用の違いをどう見るか。教育の自由とどう関係してくる
のか。戦後の今日の、文部省(文科省?)の指導要領にがんじがらめになり、教育委
員会と管理職(校長・教頭)の顔色を伺わなければならない教育と比べて、戦前の教
師の教育における自由度はどうだったのか。表面的な「縛り」と実質の「自由」と実
体はどうだったのだろうか。そういう研究もあるのだろうが、一般には知られていな
い。
 それはさておき、この学校では生徒の四分の一、約100名が寄宿舎生で、彼らの
手で運営された。その寄宿舎で、土曜の夜ときどき映画鑑賞会が開かれる。予算の関
係だろう、無声映画ばっかりだった。小学生の私はときどきその映写会にこっそり潜
り込ませてもらった。弁士は国語の教師。伊丹万作の時代劇などや西洋の名画だった
と思う。雪の山小屋に閉じ込められたちょぼ髭の男が空腹に耐えかねて自分の靴を煮
て、そのひもをフォークでくるくる巻いて食べる・・・戦後何年もしてうす暗い映画
館の中でそのシーンに再会することができた。