静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

プリニウスつれづれ(8)『影の歴史』に寄せて

2016-11-12 20:34:01 | 日記

 

      <「『影の歴史』に寄せて ―プリニウス随想(7)」の改訂版>

 

                   (一)プリニウスとストイキツァ     

                   (二)影と鏡

                   (三)  ブタデス伝説の伝承

                   (四)絵画の東と西                       

                   (五)プリニウスの絵画論から 

 

  序 

 ヴィクトル・I・ストイキツァの著『影の歴史』(1997年、邦訳、岡田・西田訳、2008年)が出て年数が経った。この著の訳者の「西洋文化における表象に関する言説の中心に、影に関する思想が占める場所を確立しようとする試み」というストイキツァ評に動かされて素人談義を試みることにした。

 

  (一)プリニウスとストイキツァ

 

絵画の起源

 『影の歴史』の出発点はプリニウスの伝えるギリシアの伝説である。そしてこの伝説がこの書の基本テーマになっている。ストイキツァは、古代ギリシア人の間では、影と魂と分身とは互いに象徴的に結びついていたというエルヴィン・ローデ(ドイツの古典学者(1845-98)の研究を紹介して、この結びつきがプリニウスに対しても通用すればとしながら論をすすめているのである。だがこれは、ストイキツァ自身の主張でもある。これは興味ある指摘だ。それは影のない絵は魂のない絵だという問題提起であり、その考えは絵画の起源から始まっているとされる。筆者はそのローデの研究は読んでいないのでそれを評価できる立場ではないが、ストイキツァの『影の歴史』をもとに若干の私見を述べたい。この書の冒頭はプリニウス『博物誌』からの引用である。

  

<引用A> 絵画芸術の起源の問題は定かでないし、本書の計画外である。エジプト人は、それは彼らの間で六〇〇〇年前、それがまだギリシアに伝わらないうちに発明されたものだと断言する。これは確かにいい加減な断定である。ギリシア人について言えば、そのある人々は、それはシキオンで発見されたといい、ある人々はコリントスで発見されたという。しかしすべての人々が一致しているのは、人間の影の輪郭線をなぞることから始まったということ、したがって絵はもともとそのような方法で描かれたものだということである。しかし、いま少し洗練された方法が発見されて第二段階に入ると、絵画は一色(monochromaton)で描かれる単色画となり、その方法は今日でもまだ用いられている。(『博物誌』三五151)。

 

 この後すぐ、「プリニウスはもう少し起源をさかのぼりこう語る」として次の<引用B>に移る。

 

<引用B> 絵画については十分に、いや十分以上に語られた。これらの言葉に彫塑について少々付け加えることは適当であろう。粘土で肖像をつくることが、コリントスでシキオン(コリントス近くの都市)の陶器師のブタデスによって発明されたのは、あの同じ土(注:不明)のお陰であった。彼は自分の娘のお陰でそれを発明した。その娘はある青年に恋をしていた。その青年が外国へ行くことになったとき、彼女はランプの光によって投げかけられた彼の顔の影の輪郭を壁の上に描いた。ブタデスはこれに粘土を押しつけて一種の浮き彫りをつくった。それを彼は、他の陶器類といっしょに火にあてて固めた。その似像は、ムンミウスによるコリントスの破壊までニンフたちの神殿に保存されていたという・・・(『博物誌』三五151)。

 

『博物誌』三五巻の主題は絵画・画家などである。<引用A>は絵画論の冒頭部分で、それに続いてローマとイタリアの簡単な絵画史、詳しい絵の具の話、そしてギリシアからローマに至るまでの主要な画家とその作品と続く。それが終わると「絵画については十分に、そして十分以上に語り終わった」と述べ、「付け加え」として塑像に移る。その冒頭に<引用B>がくるという構成になっている。プリニウスは、<引用A>と<引用B>の時間的な前後関係は書いていない。ただ、絵画論後に彫塑論を書き、それぞれに起源を書いただけである。

しかしストイキツァは、「プリニウスはもう少し起源をさかのぼりこう語る」としてBを先にする時系列を作った。しかも彼はこの二つの伝説を結び付けて一つの物語をつくりあげた。だから読者に混乱をもたらす。しかし、そんなことは些事に過ぎない。ストイキツァは、「芸術の再現表象は一般に,もとをたどれば原始的な陰影段階にまでさかのぼることができるのだということであろう」「プリニウスのねらいは、いかなる正確な年代にもとらわれない基本的な説明を通して、この『曖昧な』起源に光を当てることにあったのである」と所見を述べている。

だがやがて、ブタデスとその娘の話は「神話」になり西欧の絵画史に伝わったとされる。一方プリニウスは、この話を絶対視して伝えているわけではないし、それが歴史的真実であるとも言っていない。ただ、たんたんとその話を伝えているだけである。絵画の始まりに関して彼は、「すべての人々が一致しているのは、人間の影の輪郭線をなぞることから始まったということ」であるとしていて、自分の主張であるとも言ってもいない。しかし後世の西洋の人たちは、この説話の中に絵画や彫塑の誕生にまつわるある種の真実味を感じとろうとしていたのだろう。だからこそ、この伝説は今日まで西欧の絵画史の中に息づいてきたのであり、一個の精神として存在している、ストイキツァが言おうとしているのはそういうことだと思う。

 

旅立つ若者                                                                   

 そもそもブタデスとその娘の伝説は、きわめて古い時代の話で、おそらくプリニウスの時代をさかのぼること数百年にもなろう。あいまいな箇所が多いのも当然である。

娘が恋した青年は外国に行こうとしたとあるが、どこへ、どういう目的で行こうとしたのか、青年は帰ってきたのか、なぜ似像を神殿に納めたのか、納めたのはいつか? プリニウスは何も書いていない。そこでストイキツァは、危険を冒しているのだがと断りながら大胆に推測する。ストイキツァの解釈は、青年は戦地へ赴く、である。今日の多くの評者は最初から戦場に赴くことを前提としているが、それは違う。ストイキツァも最初からそう決めているわけでもない。大胆な推測だというのである。推測だが合理性がある。娘はその青年と永遠の離別になる可能性が高い・・・。

 ギリシアでは優れた卓越した青年は若くして死ぬのである。ギリシア神話では数多くの卓越した青年たちが死を免れ得なかった。そして、とくに初期においては、戦死した戦士は英雄神(ヘロス)として祀られることが普通だった。ペリクレスは、サモス遠征において戦死した戦士たちは神々のように不死になったと称えた(プルタルコス『英雄伝』「ペリクレス」8)。もしそういうことならば、娘の恋人は英雄神となって娘の所には帰ってこない存在なのである。父親のブタデスの作った塑像は最初から神殿に奉納する意図を含んでいたと考えてもいいだろう。娘が恋人の面影を壁に描くにあたっては、そのようなせつない思いが込められていたに違いないし、父親はその娘の気持ちを忖度してやるほかはなかったのだ。だが、プリニウスの生きた世界は、まだギリシアとローマの神話が混交し、伝説や言い伝えが人々の心の中に浸透していた時代だった。

 少し離れた所に置かれた灯火、壁ぎわに立つ若者、壁に写る影をなぞる乙女、傍らでそれを悲しげに眺める父親、多分母親も。こういう構図が思い浮かぶ。プリニウスの説明はいたって簡潔である。そもそも言い伝え自体が簡潔だったからでもあろう。だからその情景も推測する以外ない。だがプリニウスは、ブタデスの娘が書いた輪郭線が絵画の始まりだといっているわけではない。

 

(二)影と鏡

 

プラトンの洞窟

 ストイキツアーはここで、よく知られているプラトンの『国家』における洞窟の影の話を持ち出す。プラトンの説話の大筋は次のとおり。

地下の洞窟に、子どものときから手足も首も縛られたままの囚人たちがいる。首は後ろに廻せないので洞窟の奥の方しか見ることができない。彼らの後ろの高いところに火が燃えていて、囚人たちの背中と火の間に、あらゆる道具とか石や木、人間・動物の像などがあってそれが運ばれて行ったり来たりする。囚人たちは洞窟の奥の壁に映るそれらの像の影だけを見て生きてきた。あるとき囚人の一人が縄を解かれ、立ち上がって火のある方を見よと強制される。だが彼は、以前見ていたもの(影)の方が真実であると考えるだろう・・・。

プラトンはこの洞窟の話の直前で、人間の知の領域を四つに分けて分析している。知的思惟(直接知)、悟性的思惟(間接知)、実物(確信・直接的知覚)、そして影像知覚(間接知覚)である。彼はこのうち最後のものを「下位のもの」としている。囚人たちが見たものはその最下位の影像に過ぎないのだ。そして、「絵画とは・・・実際にあるものをあるがままに真似て写すことか、それとも、見える姿を見えるがままに真似て写すことか? つまり、見かけを真似る描写なのか、実際を真似る描写なのか」と問い、「見かけを真似する描写なのです」という答を得て、「真似(描写)の技術というものは真実から遠く離れたところにあることになる」と述べ、「真似の術とは、それ自身も低劣、交わる相手も低劣、そして産み落とす子供も低劣、というわけだ・・・」と断定する。プラトンの生きた時代はギリシア彫刻、ギリシア絵画の最盛期だったのだが。だが彼にとっては絵画も彫刻も論ずる価値、存在する価値さえなかったのだろう。絵画自体を拒否したプラトンは、絵画の中に占める影などは問題にもならなかった。ストイキツァは、「西洋のイメージに関する歴史の中で影は常に否定的な要素がつきまとった」という。

 

ストイキツァは「プラトンとプリニウスは異なったことがらについて語っていて、両者はともに起源にまつわる神話を扱っており、プリニウスは芸術の起源を、プラトンは知の起源にまつわる神話を取り扱っている。ともにその中心にあるのは投射というモチーフであり、芸術(真の芸術)と知(真の知)は、ともに影を超えたところにあるということだ」と評してる。しかしプリニウスの場合は伝説であり、プラトンの方は観念的な創作に過ぎず、神話を扱ったものではない。ストイキツァは自分で神話に仕立てたのであろう。 

ストイキツァは、プラトンのこの寓話以来、影は常に否定的な要素がつきまとい、それは西洋のイメージに関する歴史の中で払拭されることはなかったと述べているし、それを例証する事実もいろいろ挙げている。ストイキツァはプリニウスとプラトン両者を較べて、プリニウスの場合は、イメージ(影、絵画、彫刻)は同一物の別のものであるが、プラトンの場合はイメージ(鏡、反射像、絵画、彫刻)は写しの状態にある同一物、あるいは分身という身分での同一物ということにあると評している。

 

ナルキッソスの愛

 ストイキツァはさらに、オウディウスのナルキッソスの伝説に触れながら、『絵画論』(1435年)の著者レオン・バッティスタ・アルベルティの言説を紹介する。「絵画を発明したのは、花に変えられてしまったナルキッソスであった」「技芸という手段を用いて、泉の表面を抱擁する行為でないなら、絵画とは何であろうか?」「鏡を抱擁することは、影の輪郭を線でたどることと明確に区別されている。ルネサンス以来、西洋絵画というものが、同一者への愛によって生み出されたものであることは明白である」という言葉などである。このあとストイキツァは、ジョルジュ・ヴァザーリ(一六世紀の画家)が、上記の「鏡の抱擁論」と「影の輪郭論」二つを調和させようと試みたが失敗したという。ヴァザーリは絵画の起源に関してプリニウスをざっと読んで、次のようなシナリオをつくったとストイキツァはいう。

 

  しかし、プリニウスによれば、この技法はリディァのギュゲスによってエジプトに導入されたということになっている。ギュゲスは火によって映し出された自分の影を見て、壁に写った自分の輪郭をすぐさま一片の炭でなぞったのである。このことがあって以来しばらくのあいだは、輪郭を線でたどるだけというのが習慣となり、そこにどんな色もつけることはなかった。

 

ギュゲスという人物は、プリニウスのこの文だけで知られていると思うが、まことに奇妙な文章である。「プリニウスによれば」とあるが『博物誌』のどこにあるか示していない。捜してみたら、『博物誌』第七巻205の事物の発明者・創始者を列挙した箇所で、「格闘技はピュテオスによって、投球技はリュディアのギュゲスによって、絵画はエジプト人によって・・・創められた」という文章に出会った。先の<引用A・B>と比べてみるといい、偽造としか言いようがない。こういう文書を論拠とすれば過ちが生じても仕方ない。

 

(三)ブタデス伝説の伝承

 

愛の伝説に 

このプリニウスの説話は、その後の西欧絵画に大きな影響を与えたというストイキツィアの論拠は、豊富な資料や絵画の紹介や分析によって示される。

 プリニウスの物語では屋内での燈火による影絵であったが、それが屋外での、あるいは太陽光での影に変えられたり、男性が女性を描くことになったり、とくに中世ではキリスト教の説話の題材に用いられたり、果てはソビエト連邦で、壁際に座るスターリンの影を一人の女性が描く「社会主義リアリズム」のパロディーに使われたり、影絵が観相学に用いられたり。画面中央に巨大に描かれた黒い影・・・ピカソの「影」という作品など・・・とてつもなく広がっていく。

 そういうわけで、この著には、プリニウスの絵画の起源に関する説話や西欧人の影に対する多様な発想が紹介されているわけだが、それはあるいは宗教的信仰に伴うものであったり、邪悪や悪魔を象徴するものでもあったりした。だがストイキツァはそれが愛の伝説であると見なされたとも言う。その例として、ルソー(1712-78)の『言語起源論』から一節を紹介している。以下はその孫引きである。

                                

  愛は素描の発明者だといわれている。愛は言葉を使って話すことも発明したかもしれないが、不幸にも愛はそれに満足せず、それを軽蔑している。なぜなら、自分自身を表現するにあたっては、しゃべることよりももっといきいきした方法があるからだ。恋人の影の輪郭を愛情込めてたどった女性は、まさに彼に多くのことを語っていた。 

 ストイキツァは、これはプリニウスの神話が愛の伝説であるとはっきり見なされた最初の例であり、輪郭をたどった影が最初期の絵画表現ではなく、愛を表現する最初期の言語として見なされた最初の例でもあるという。これは一つの解釈である。なるほど、そういう理解の仕方もあるのか。そういう理解の仕方は西欧の絵画観に変容を与えていったのかもしれない。だが、筆者としてはルソーの考えには賛同できないし、従ってそれをわざわざ引用したストイキツァにも疑問を感じる。

 

ゲーテの『色彩論』から 

 ゲーテの最も重要作品ともいわれる『色彩論』、その第三部「歴史篇」は、単なる色彩論ではなく、広く絵画論、芸術論、果ては文明論にまで及ぶ大作である。そこには、古代ギリシアからゲーテの時代までの広範な展望がある。ゲーテはこの書のプリニウスに関する部分に、友人のヨハン・ハインリヒ・マイヤー(宮廷顧問官・画家)の原稿をとりいれた。より一層の専門的知識の必要性を感じたからだろう。ゲーテは、プリニウスの著作は「原典にせよ翻訳にせよ入手するのはむずかしくない」と書いているが、彼自身は一八〇六年、『博物誌』のドイツ語訳(178188)をワイマール図書館から借り出している。

マイヤーの論文は、歴史編第二部「ローマ人」のなかに「彩色の仮説的歴史―特にギリシアの画家に関して、主としてプリニウスの報告による」と題されて採録されている。これは歴史的にみても立派なプリニウス絵画論となっている。

 マイヤーははじめに意味深長なことを述べている。彼は、この論文に「仮説的歴史」と名づけたのは、プリニウスによる報告が多くの点で実に曖昧で不完全であり、推測による説明や補足が必要だったからであるという。推測というものは、自然に無理なく生まれてくることもあれば、事柄の成り行きからどうしてもそうしなくてはならないこともある。だから、こうした推測によって補われたものは、芸術の本質にほとんど、或いは全く馴染まない報告書よりも、遙かに信用のおけるものになる・・・(南大路・嶋田・中島訳参照)と論じている。もしこのマイヤーの説を肯定するならば、ストイキツァの先の<引用A>と<引用B>との結合、それから「青年は戦場に赴いた」という大胆な推測も肯定できることになる。だがマイヤーはこの二つのことには言及せず「我々が本物の人間の影や影絵ではなく、平面上に形態を記録しようとして初めて線描画を試みたのだとしたら、これは信憑性のある説である。というのも、線描画を描くことこそ絵画の基本なのだから」という。そして、「絵画の最初の試みはきわめて古い時代にまで遡る。これくらいが確実に言える唯一のことだろう」と書いて、ブタデス伝説には触れない、もしくは無視している。その代わり次のように言っている。

  

 古代の人々の作った作品がたとえ子どもたちの努力と比べられる程度のものであったとしても、古代の芸術の創始者を稚拙な精神や未熟な精神の持ち主だと非難するわけにはゆかない。平面上に置かれた球形状の物体を描写するようになった契機、絵画へといたる最初の契機は彼らから生まれたのだから。そして最初の一歩というものはいかなるものであっても、偉大にして大事な一歩とみなしうるのである。

 

マイヤーも最初の一歩を探ろうとしている。もちろん最初に絵画とは何かという問題が立ちはだかっている。それを追求すれば困難な問題にぶつかる。原始人が洞窟に描いた狩の図を絵画と呼んでいいのかそれも疑問だ。平面に置かれた球形状の物体を描写しようとする意識の発達までには、遠い道のりがあったことも間違いないだろう。『影の歴史』は、そういう問いに一つの解答を示すことになった。プリニウス自身が絵画における影の役割に気づいていたわけではない。マイヤーはプリニウスを論じながらブタデス伝説には無関心だった。ストイキツァ自身がいうように、西欧においても、学問や芸術の起源に関する表象としての影の系統的な研究はほとんどなかったのだろう。

 ストイキツァはこの問題に関して、ドイツの画家・美術史家のヨアヒム・フォン・ザントラルト(Sandrart1606-88)の言葉を紹介している。ザントラルトは、中国人の絵は何ら陰影をもたない輪郭だけしか再現しない、量感を生み出そうともしない、空間の奥行きを表現する方法をしらない・・・と述べている。だがこの批評自体が中国絵画に対する無理解を示している。中国絵画の素材は絹布や澄心堂紙(ちょうしんどうし)のような高質紙であり、それに適った筆に墨、そこから生まれる墨画は、墨の濃淡、筆遣い、複数の線、そして対象物の配置・・・などによって量感や奥行きを表している。決して輪郭だけしか表現しないのではない。ただし中国の伝統的絵画は、形を描くのであって影を描くものでないことは事実である。ザントラルトは中国清朝の康熙帝の頃の人であり、ドイツ人としては初めて美術史を著した人だという(『西洋人名辞典』による)。彼が中国絵画に陰影がないことを指摘したことは一つの問題提起かもしれない。だが実際は、その頃には中国では影を描く手法も広がりつつあったのである。

 このザントラルトの評に対しストイキツァは「西洋美術と比べれば、中国美術は『その他の美術である』、中国美術が『異なっている』理由は、それがヨーロッパの規範を無視しているからだ」と論じている。規範とは何か、それを彼は明確に示しているわけではないが、彼の論調から言えば、影を描かないことが規範を無視しているのである。だが、そうであろうか。無視したのではなく、異なった価値観、世界観をもって生まれた絵画なのである。

 伝統的な中国の絵に西洋絵画のようなか影がないことは、ザントラルトの言うとおりである。しか上述のように、立体感や遠近感を描く方法はもっていた。その描き方は、中国人や日本人には何ら違和感をも与えなかった。ストイキツァは中国の絵は「ヨーロッパの規範を無視している」というが、絵画の規範をヨーロッパ人がつくるものでもない。アジア史家の宮崎市定によれば、むしろ規範は中央アジアに生まれたのである。だから「その他の美術」が西洋の美術であるのか中国の美術であるのか、容易に判断できるものでもない。

 

(四)絵画の東と西

 

美術史の流れ

ザントラルトにせよストイキツァにせよ、果して彼らが中国の絵画史や絵画にどれほどの造詣があったのかは知らないが、どうしても西欧中心的な見方に陥ることを避けられなかった。ずいぶん前のことになるが、宮崎市定は論文「東洋のルネッサンスと西洋のルネッサンス」で次のように論じている。人類社会を東洋、ペルシア・イスラム世界、西洋の三つと名付けるとすると、それぞれ数世紀の間隔をおいてペルシア・イスラム世界、東洋、西洋の順に文明は発展してきた。文芸復興(ルネサンス)も同じ順で経験されたが、最後に発展した西洋での文芸復興が最も成果を挙げ今日に至っている。その文芸復興の最大の成果は芸術であり、なかんずく絵画であると宮崎はいう。そして次のように論ずる。

絵画の出発はペルシア・イスラム世界である。それがやがて東は中国へ、西は西洋へと伝えられることになった。だが、絵画の技術が最初に完成したのは東洋においてである。それが後イスラム世界に入り、さらにこれとほとんど同時に西洋にも入って、やがてイタリアのルネサンス期の絵画に影響を与えた。その東洋画の初期つまり六朝から唐にわたる頃、ペルシア世界、特にササン朝ペルシアの末期は文化の爛熟時代で、絵画も中央アジア・インドから中国に影響を与えた・・・このように推測できるという。宮崎のルネサンス論の一部を引く。

 

 レオナルド・ダ・ヴィンチの人物の背景たる風景画が東洋的霊感を以て書かれたであろうことは、既にドイツ人ミュンステルベルグが、その名著『シナ美術史』の中に述べており、英人マルチンもその大著『ペルシャ・インド・トルコの密画及び画家』の中でレオナルドの東洋趣味を問題にしており、ラ・ツウレットや、ブウジナもこれに賛成している。余はこの時代の風景画の中に、東洋画家の皺法(しゅんぽう)を模した所があるかと疑い、特にドイツのデューラーの水彩画中には確かに存在していると信ずるものである。

 

そのほか宮崎は、ルネサンス以前には、しばしばマリア像が東洋人の顔立ちで描かれていることなど、いくつもの事例も挙げている。しかし宮崎は、西洋の絵画が東洋に影響を受けたことが、西洋の絵画が東洋の絵画に劣っているわけでは決してないという。西洋人には東洋人が持たない独特の技法をもったが、そこには幾何学的遠近法があり、光学的陰影法があり、解剖学の応用があったと評価している。そして西洋人が芸術眼を開き、芸術的霊感を受けたとすれば、それは東方との交通によってもたらされたものであると考える。更に宮崎は次のようにもいう。

文芸復興期のイタリア絵画史は二期に分けられ、前期の一四世紀ではジオットなどが清新な画風を吹き込んだが後継者が模倣に堕し、後期の一五世紀に入ってマサッチオ、フラ・アンジェリコなどによって清新さを取り戻し、やがてレオナルド・ダ・ヴィンチにつながってゆくと。更に、この一五世紀前半にはチムール王朝の君主シャハ・ルクのもとにいわゆるヘラット絵画といわれるイスラム密画の黄金時代が築かれ、それがイタリアの文芸復興期の時代と重なり、両者が並行して継起したと。

 

気を描くのが中国画

 旧来、中国絵画は「気」を描くのが主眼だったことを、宇佐美文理氏の『中国絵画入門』で学んだ。気は日本人にも馴染み深い。元気、気力、気分、天気、生気・・・など。だから判ったような気になりやすい。

 中国絵画は気を描くことから始まったというが、気は目に見えるものではない。当初はそれを具象化して絵のなかに現そうとした。しかしやがて、見えないものは見えないとして描くようになった。見えないものをどうやって描くのか。たとえば、見えない気の周りに、見えるものを描いて取り囲むとによって気を描くのである。西洋の都市には広場がある。本当は広場でもなく公園でもない。広場は道路も兼ねているから広場の周囲に道路はない。周囲にはそれに面して建造物があり、通常広場と称するものは建造物と建造物の間の隙間である。中国絵画に表される気は、たとえば周囲の山水のはざまにある空間で示される。建造物のはざまに広場を作った西洋人が、山と山とのはざまにある空間に気があることに気づかない不思議である。

 西洋画は、なるべくものに似せて描こうとする。プリニウスはある絵の競技会の様子を伝えている。ウマを描く競技会で、アペレス(前325年頃のギリシアの画家)はその審判員を人間からウマに変えることを要求した。競争相手の画家たちの陰謀を察知したからである。数頭のウマが連れてこられた。ウマたちはアペレスの描いたウマの絵を見て嘶き始めた。その後、競技会の審査にはその方法がとられるようになった。それが芸術家の技量を試す正しい方法であることが証明されたからだという。それに似た話は他にもある。ただしその方法が正しいとプリニウス自身が言っているわけでもない。彼はこのウマの絵を見たことがあるのだろうか? 彼はこういっている「ある絵の競技会で彼が描いたウマの絵がある。或いはもう失われたかも知れないが」。ある絵の競技会というのは、上記の競技会のことである。プリニウスはその絵を見たことがあるが、『博物誌』でそれを書くときには無事存在していたかはわからなかったのだ。そのウマの絵には影はあったのだろうか、知りたいところだ。

ところが中国人にとって大切なことは、先述のように気を描くことであったという。だから絵の対象物は、必ずしも実存物に似せて描く必要性を感じなかった。山水画を見ても、ありえない山容を描きそこに気を漂わせる。その山容や水、樹木などは、それを描く人の気によって生まれたものである。人物を描けば、その形ではなくその人物の気品あるいはその精神性、つまり気を描くのである。

山水画を例としてもう少し考えてみよう。西洋人は描く人(画家)の目で、その本人の視点で得た情景を描くが、中国人は違う。近景、向こうの山、そして遠く山、それぞれを異なった眼で眺めたように描く。西洋画は一個のレンズで写した絵だ。中国画は標準レンズ、望遠レンズ、そして超望遠レンズを使ってそれぞれの山を別々に写し、それらを一つの画面に上下あるいは左右に繋いだような絵を描く。繋ぐといってもぴったり繋ぐことはできない、だから先述のように、それぞれの山景の間に隙間ができる。どのように隙間をとるか、それは画家の手腕である。そこに白く霞を描くか、淡い霧を描くか、何も描かないか・・・。それが気を象徴する。気は本来物質ではないから表すことはできないのだが、絵の鑑賞者はその無の中に気を感じ取ることはできる。その空間に讃を書いたりする。画と書が一体となって一個の思想を形成する。画面の隅々まで絵の具を塗りたがる西洋の絵画とは大違い。だからザントラルのいう「その他の美術」ということになり、西洋人の精神とは違ったところに存在することになる・・・これは筆者が宇佐美氏の著書を読んで感じた全くの独善的な解釈に過ぎない。

 

プネウマ

西洋のギリシア・ローマの哲学、特にローマに影響を与えたストア哲学ではプネウマという概念がある。日本語に訳し難い。気息などとも訳されたりするが、日本語にある気息は息(いき)や呼吸のことであって、同じではない。無理に訳さないでプネウマとそのままにした方がわかり易いということになる。ではプネウマとは何か。ある哲学者はこういう。ストア学派によると、それは内在的なものであり世界の根源的な力である。また根源火・根源のプネウマ・世界霊とも呼ばれ、同時に世界理性(ロゴス)、世界法則(ノモス)、予見(プロノイア)、運命(ヘイマルメネ)などと言い現わされる。プネウマによって質料に形が与えられ、軌範と法則にしたがう運動が起こされる。もう少しわかりやすく表現すれば、プネウマは、無機的自然においてはただ存在するだけで、植物界においては成長の段階に高まり、動物界では魂として現れ、人間においては理性として現れる。だが、根本的にはプネウマは至るところにあり、それは物体的なものの側面に他ならない。すべては物質であり、いわゆる生命力も物質である・・・ということになる(ヒルシュベルガー『西洋哲学史』1古代、高橋憲一訳より)。これはヒルシュベルガーが、プリニウスの世界観に関連づけて説明した文章の一部である。それは中国における気とは異なる。中国人は気を描こうとしたが、西洋人はプネウマを描こうとはしなかったし、プリニウスもそんなことは書いていない。彼は輪郭の線描は描いたというが、影自体を描いたとも言っていない。影の役割などは書いていない。ギリシアの絵は多くが失われて壷絵ぐらいしか残っていない。しかしローマの絵はある程度残っている。それらの絵を見ると、巧まずして影が描かれているものがある。たとえば、先のマイヤーは「アルドブランディーニの婚礼」(前一世紀ローマの作品)を高く評価しているが、そこでの見事な陰影について言及している。だが、その陰に何か特別な精神的なものを与えようとはしていない。

 しかし宇佐美氏がいうように、「世界は気でできており、その気のはたらきによって、花が咲き葉が色づく。人間もまた気からできている。人間の心もまた気の働きにすぎない」というのが中国人の思想ならば、プネウマの思想とどう違うのだろうか。さらに氏は、中国の自然観では、現代の我々がいう自然観、つまり自然は人間に対立するものという自然観とは違い、自然の中に人間もすっぽり含まれると説明している。

古代ギリシアやローマの思想の多くはそれと同じく、人間も自然の一部分であったという。『博物誌』はそういう思想のもとで編集された。では、プネウマと気はどう違うのか。西洋の「影」は鑑賞者の誰にでも見えるし、それがその絵の主人公になったりする。しかし、中国画の「気」は士大夫・文人でないと見てとれない、感じとれないとも言われてきたが、果たしてどうなのだろうか。

 

(五)プリニウスの絵画論から

 

ブタテス伝説の真偽

 プリニウスは、自分が報告したブタテス伝説が、絵画の出発点のように扱われているのを知れば、きっと当惑するに違いない。 彼は、最初の<引用A>のように、絵画芸術は人間の影の輪郭線をなぞることから始まったとは言っている。あくまでもそれは線なのであり、影ではない。プリニウスは、これが第一段階だという。いま少し精巧な方法が発見された第二段階では一色で描かれ、それは単色画と呼ばれる。それは今日(プリニウスの時代)でも行われているという。一方で「線描はエジプトのフィロクレスあるいはコリントスのクレアンテスによって発見された。しかし最初にこれを実行したのはコリントス人アリデイケスとシキオン人テレファネスであった。これらは色彩を用いない時代の人々だ。とはいっても、輪郭内のあちこちに線を加えたという。そして、コリントスのエクファントゥスは、これらの線画に土器を粉末にしてつくった絵具を塗りつけた最初の人であるといわれている」と述べている。

 彼はこの後すぐ思い切ったことを言う。つまり、上記のような絵画技術はすでにイタリアでは完成していた、アルデア(ローマ南方の町)の諸神殿にはローマ市よりも古い絵画が今でも残っていて、たった今描いたような新鮮さを保ってきたと彼はいう。ローマ市の建設は、伝説であるが西暦前七五三年である・・・これは驚きだ。とにかくプリニウスの叙述には乱れがある。

 一方、線画ということになると、中国の伝統絵画は線画が中心だ。彩色をしても一色か二色程度、線が最重要な要素である。プリニウスは線画の重要性を下記のようなエピソードで伝えている。

 コス島出身のアペレスは、彼に先立つすべての画家、彼の後に来るべきすべての画家を凌ぐ画家だとプリニウスはいう。『博物誌』に登場する人物の中で最も多くの紙幅を費やしたのがアペレスである。そこにあるエピソードのひとつ。アペレスは日ごろからロドス島のプロトゲネスの手腕に敬意を表していた。彼は海を渡ってプロトゲネスの仕事場を訪ねたが留守だった。留守番の老女が、あなたは誰ですかと聞くと、そこにあった新しい画板に絵の具で極めて細い線を描き,この者だと告げなさいと言って去った。帰宅したプロトゲネスは、こんな完全な仕事はアペレス以外に出来るものではないと言い、今度は別の絵具を使ってアペレスが引いた線の上にさらに細い線を引いた。そして老女に、その客が引き返して来たら、それを見せなさいと言って立ち去った。引き返してきたアペレスは、自分が負けたことを恥じ、また別の絵具で、前の二線を横切って、もうこれ以上細かく書きようのないような線を描いた。再び戻ってきたプロトゲネスはそれを見て、自分が負けたことを認め、その客を捜しに波止場へ飛んで行った。そしてプロトゲネスは、この画板をそのまま後世に伝えることに決めた。

 プリニウスはこうも言っている。この画版は、カエサルの宮殿の火災のとき焼失したと聞いているが、それ以前にはわれわれは大いに鑑賞したものだ。広い画面には目にもとまらぬほどの線以外には何も描いていないので、他の多くの作品の中で一つの空白のように見えた。そして、どんな傑作よりも重んじられていたと。またプリニウスはアペレスについて次のようにも書いている。「彼は絵では表せない事物をも描いた。雷鳴、電光、雷電などで、その絵はそれぞれプロンテ、アストラベ、ケラウノボリアというギリシア語の題で知られている」。このような話を聞くとわれわれは、中国の伝統的な画法を思い出さざるを得ない。

さらにプリニウスはいう。「四つの絵の具だけが、あの高名な画家たち、アペレス、アエテティオン、メランティス、そしてニコマコスによって、彼らの不滅の作品を作り上げるのに用いられた。白はメリヌム、黄土色はアッティカの、赤はポントスのシノピス、黒は油煙である。彼らの絵はどれひとつでも一つの町全体の富くらいの値で売れるのに・・・実際、資源が今よりも乏しかった時代には、すべてが今より優れていた。その理由は、人々が今日探し求めているものは材料の価値であって、天才の価値ではないということだ」と。彼は他の箇所で、ローマの彫刻が作品の内容よりも、その素材の高価なことが自慢の種になってきたと嘆いている。絵画についても同じなのだ。

 

現代の考察

 中国でも清時代の後半になれば西洋絵画の手法が導入され、影、陰影、遠近法などを用いた絵が生まれていた。端的にいえば気を描くという伝統的な画法が凋落したようにも見える。だがしかし、今も観光客相手の土産店の店頭には、伝統的な山水図の掛け軸などがところ狭しと飾られていた。それを中国絵画の沈滞とか発展・進歩とかに結びつけることはできない。そもそも芸術に直線的な進歩というものがあったのだろうか。「古代の人々の作った作品がたとえ子どもたちの努力と比べられる程度のものであったとしても、古代の芸術の創始者を稚拙な精神や未熟な精神の持ち主だと非難するわけにはゆかない」というマイヤーの言葉を思い返してみよう。

 

人類がもっともすばらしく発育したその歴史的幼年時代は、二度とかえらぬ一つの段階として、なぜ永遠の魅力を与えてはならないだろうか? わんぱくな子供もいればませた子供もいる。古代民族の多くはこの範疇にぞくしている。正常な子どもはギリシア人であった。彼らの芸術が吾われにたいしてもつ魅力は、それが生い立つ基礎をなした未発展な社会段階の結果であって、むしろ芸術がそのもとで発生し、しかもそのもとだけで発生しえた未熟な社会的条件がけっしてふたたびかえってこないということと、不可分に結合しているのである」(カール・マルクス『経済学批判』)。

 

西洋で発達した科学は一直線に発展しているように見える。「徒歩から車、車から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機へ」、まさに止まることをしらない。今はこれに宇宙船を加えなければなるまい。

だが芸術はその限りではない。一直線に発展するわけではない。人間のつくった社会構造もその文明もそうである。ホメロスの時代も、史記の時代も、源氏の時代も、浮世絵の時代も帰ってはこない。「影」で陰影を深めた近代西洋絵画も役割が終わったかのように退いてゆく。縦三メートルほどもある大きなキャンバスに、白の絵の具をただ塗っただけの現代絵画を展示会で観たことがある。近年では影のない西洋画も見受けるが、この絵には「影」も「形」もない。この現代の先端を行く絵は、新しい世紀を切り開く象徴なのだろうか。「出来事の一つの周期が終わると、世界火はすべての出来上がったものを再び消し去り、それを莫大な量の燃える霧にして根源火に返し、次いで根源火は新たにもう一度それを自己の許から解き放つ」(ヒルシュベルガー前掲書)。このストア学派の理論を肯定するわけでも信ずるわけでもないが、近年の事象を見ていると、世界にとって、一つの周期が終わりつつあると思わせるものがあることも事実である。