静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

靖国の「英霊」はどこへ行く

2014-02-04 17:38:21 | 日記

(一)

  誰でも最後の日(死んだ日)以後は、最初の日(生まれた日)以前と同じ状態にある。肉体も精神も感覚をもたないことは生まれる前と同じなのだ・・・ところが、人間の空しい望みが、自己を将来へも延長し、死後も続く生命をでっち上げる。時には霊に不滅性を与え・・・時には地下の人々に感覚を与え、霊魂を崇拝し、人間であることさえ止めた人を神にしたりする。・・・魂そのものの実態は何であろうか。その質料は何か。その思考はどこに宿っているのか。・・・彼らはどうやって感覚を得、どのように用いるのか。・・・無数の時代の魂や幽霊はどんなにおびただしい数にのぼることだろう。・・・これらは子どもくさいばかげた空想で、永世を貪り求める人間の考えに過ぎない。

 上記は、二千年ほど前に書かれた書物の一節である。もう一つ、マルクス・アウレリウスの言葉の一節も載せよう。

死は誕生と同様に自然の神秘である。同じ元素の結合、その元素への[分解]であって、恥ずべきものでは全然ない(『自省録』神谷訳)。

 これらは、古典古代における思想の一つの流れである。

(二)

 たまたま作家・高橋源一郎氏の「戦争の傷痕 すべて解決済みなのか」、映画監督で作家・森 達也氏の「われわれは加害者の末裔である」を読んだ(『朝日』1/30)少しし感想がうまれた。

「靖国で合おう」が日本将兵たちの合言葉だったのかどうか知らないが、靖国神社参拝に賛成する人も反対する人も、人間の霊魂が祀られていることを前提に論じている。霊魂の存在を認めない考えの人にとってはお笑いだろう。

 高橋氏の父親は「下の兄さんの霊が、靖国になんかおるもんか、あんだけフランスが好きだったんや、いるとしたらパリやな」と言っていたそうだ。霊がいるとは言っていない、「いるとしたら」である。そこには、霊など存在しないというのが根底にある。安倍首相はこの世に霊魂が存在していると信じているのだろうか。新聞記者も代議士も、誰もそういう質問はしない。質問としては幼稚すぎると先験的に考える、いや、感じているのだろう。それは暗黙の合意なのか。何十万という霊は靖国神社ののどこにいるのか、社殿の中か、敷地の中か、神社の上空か地下か・・・子どもじみた質問かも知れないが、古代人はそういう素朴な質問を積み上げながら、霊魂の存在を否定していくのだ。21世紀の今日になっても、霊魂の存在を前提としながら政治論争をしていることは、甚だ滑稽なことではないか。

 池澤夏樹氏は、小説の主人公頼子に「かつてプリニウスの身体を構成していた炭素と酸素と水素はもう地球全体に散って、大気の中を漂ったり、深海を泳ぐ魚の一部になったり、北方のシラカバの幹に取り込まれたり、赤鉄鉱の中で鉄の分子と結んだりしている」(『真昼のプリニウス』)と言わせた。ガダルカナルや、パプアニューギニア、セブ島やその他のアジア・太平洋地域で命を落とした日本兵たちの身体を構成していた分子も、プリニウスと同じように赤鉄鉱の分子と結んだりしているのだ・・・。

夏沢氏の作品では、プリニウスの霊魂の存否については触れられていない。月の世界にでも飛んでいったのだろうか。

 古来、死後の人間の住処は、大体が地下か天上か、あるいはこの地上をさまよっているかである。中国の古来の伝承では、閻魔大王の差配する地下である。キリスト教では天国に行くらしい、羨ましい。日本では仏になるのだが、運が悪いと成仏しないで地上をさまよう。靖国に祀られた人々は幸運というべきだろうか。そして靖国に祀られた人たちの多くは故郷で仏壇に祭られる。二重国籍みたいなものだ。

 (三)

 森達也氏は、戦争責任をA級戦犯だけに押し付けるべきではない、責任は天皇と当時の国民すべてにある・・・だからA級戦犯も同じように祀ることによって自分たちの加害性を直視する、それによって戦争のメカニズムが見えてくるのだという。 そして、森氏は言う。「我々は加害者の末裔である」と。確かに、安倍晋三氏は岸信介という立派な加害者の末裔である。現天皇には加害者の末裔という意識があるようにみうけられるが、安倍氏には爪の垢ほどもない。逆に、再び加害者の立場の指導者になることを夢見ているように思える。 森氏は「歴史上ほとんどの戦争は、自衛への熱狂から始まっている」という。戦争の歴史を勉強もしたことがないので、世界史のことはわからない。だが、日本はどうか。古代の対外戦争のことはよく判らないが、鎌倉時代の「元寇」は確かに自衛のための戦いだったのだろう。はっきりしているのは秀吉の「朝鮮征伐」、そのあと明治以降の主なものは、日清・日露戦争、第一次大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、アジア太平洋戦争。いずれも「自衛への熱狂からはじまっている」とは思えない。むしろ、富の収奪への熱狂で始まった。あるいは侵略それ自体への熱狂から始まった。筆者は少年時代を戦争の中で送ったからよく知っている。「満蒙はわが国の生命線」とされた。清国・中華民国は劣等民族の国だから日本が統治してやる。アメリカに勝てば、日本人はみんな金持ちになる。インドで世界を二つに分け、西はドイツが、東は日本が支配しよう・・・。実際「朝鮮」や「満州」や「上海」で「いい思い」をした日本人の話は山ほど聞いている。だから「自衛への熱狂」など、見たことも聞いたこともない。「侵略への熱狂」なら毎日でも見たり聞いたりした。

 森達也氏は、安倍晋三氏が、自衛とか平和を唱えながら戦争に国民を駆り立てようとしていると強調したいのだろうし、それはわかる。しかし過去の戦争の評価はそれでいいのか。 安倍氏の「熱狂」は自衛への熱狂などではない。先日もテレビで「専門家」が日本・韓国・中国の戦力の比較をしていた。中国が急速に軍事力を強化しているが、それでもまだまだ日本がずっと優勢だと。量ではなく質だと。憲法で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とあるが、そんなものはお飾りにもなっていない。さらに日本には強力な米軍の後ろ盾がある。米日の軍隊が共同行動をとれば、中国などものの数ではない。沖縄の軍事基地は絶対に離せない。森達也氏は、安倍政権誕生以降、自衛の概念が肥大している、ならばこの国はまた同じ過ちを犯す、積極的な平和主義を唱えながらと結ぶ。だが、「また同じ過ち」とすればそれは「侵略戦争」への過ちである。「平和」というのは国民への欺瞞であり、アジア太平洋戦争は「東洋平和のため」というスローガンを掲げて国民を瞞着した。われわれは「騙されるのも罪」という言葉を肝に銘じなければならない。そして、次の戦争の主導者にとって靖国神社は絶対に必要なのだということも。「英霊」は存在しなければならないのである。その英霊の主体がキリスト教徒であろうと仏教徒であろうと無神論者であろうとどうでもいいことなのである。パリが好きだろうと上海が好きだろうとどうでもいいのである。みんな「英霊」なのだから。その「英霊」も次のようなものであろう。マルクス・アウレリウスは言った。「死は誕生と同様に自然の神秘である。同じ元素の結合、その元素への分解である」。すべての「英霊」も、元の元素へ分解しているのだ。